『甲子残稿』の半丁

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 『甲子残稿』は高杉家に伝わった、高杉晋作自筆の詩歌草稿のひとつである。元治元年(一八六四)八月四日、家居謹慎のまま藩命により山口に呼び出され、やがて馬関から海路、九州筑前にめざして出発するまでの間に作ったとされる詩十一篇、発句二首が日記風につづられている。

 サイズは縦十九・六、横十三センチ。罫芯に「塞淵斎」と刷られた罫紙を使用する。ただし、最後の部分は、

「十一月二日、発馬関趣筑前、賦呈同行野唯人・大庭伝七」

 と、詩の題らしきもので尻切れトンボで終わっている。この続きに、詩の本篇があったのだろう。

 『甲子残稿』が初めて原本から翻刻されたのは、東行(晋作)五十年祭を記念して編まれた『東行先生遺文』(大正五年)である。その時からすでに「…大庭伝七」で終わっているから、少なくとも百年前から現状と同じだったことが分かる。

 ただし私は、『高杉晋作史料』二巻(平成十四年)中で『甲子残稿』を翻刻したさい、「…大庭伝七」の後に(以下欠)の三文字を加えておいた。かつては、この続きもあったのだろうと推測したからだ。それは次のような理由による。

 晋作は自作の詩歌に対し、愛着が深かった。後日『甲子残稿』を推敲して『放囚集』と『潜伏集』(いずれも『捫蝨処草稿』所収)の中に組み込んでいる。特に『潜伏集』を見ると、失われた『甲子残稿』後半部分がどのようなものだったのか、ある程度推測出来る。先の「十一月二日、発馬関」云々はやはり詩の題部分で、詩本篇が続く。さらに「船中、次野唯人韻」「筑前掩留中偶成」「四日、将到福岡」「六日、田代駅寄肥前閑叟侯」「帰馬関有此作」と題された五篇の詩があり、最後は三条実美ら五卿を引き留めようとする「死ヲ以ッテ をとめ申ヲスソ をとマリナサレ 長門国ニモ 武士モ有ル」の「俗曲」で終わる。

(2)

 ところが数年前、失われたはずの『甲子残稿』の半丁分が出て来た。山口県から遠く離れた、関西の古美術商からである。使われている罫紙は、『甲子残稿』と同じもの。結論から言えば、『甲子残稿』最後の半丁に違いない。それは、次のような二篇の詩が書かれている。

「  六日田代駅寄肥前閑叟侯

妖霧起雲雨暗濠。路頭楊柳舞東風。政知猛虎秦民怨。今日何人定漢中。

   帰赤馬関挙義兵

売国囚君無不至。忠臣死義是斯辰。天祥高節成功略。欲学二人作一人。」

 罫芯部分は切られており、「塞淵斎」の三文字は見れない。ただ、旧蔵者による次のような古い貼紙があり、この間の事情を知ることが出来る。

「長門人高杉晋作真牘 前半小倉人南護儲蔵具折半、欄内楷書刻塞淵斎三字仍欄外捺南氏与予為后證」

 つまり、『甲子残稿』の一丁を手に入れた旧蔵者は「小倉人南護」なる者と、これを切断し半丁ずつ所有することにした。「…大庭伝七」から先の詩などが書かれていたと思われる前半は南、後半は旧蔵者。「塞淵斎」と印刷された罫芯部分は、南が持ったことも分かる。この二人はよほど慎重だったようで、半丁ずつ切り分けたさい、それぞれ印を捺き、割印としたという。

 書かれている二篇の詩のうち、ひとつ目は晋作が田代(現在の佐賀県鳥栖市)から佐賀藩主鍋島閑叟に贈ったものだ(届いたかは不詳)。晋作は佐賀藩が四面楚歌の長州藩に味方してくれると期待し、決起を促したのだが、上手くゆかなかった。

 ふたつ目は晋作が馬関(赤間関)に帰り、挙兵による藩の政権奪取を決意したさいの詩だ。中国の忠臣である天祥の高節と成功の略を学び、二人を足して二で割ったような男になりたいとある。現在、この詩を刻む石碑が、下関市日和山公園の晋作像の傍らに建つ。

(3)

 これまで『甲子残稿』は現状から、馬関を発つまでの詩歌を集めたものと説明されていた。だが、この半丁の紙片が見つかったことで、馬関を発ち、九州筑前に入って奔走し、さらに馬関に帰って来るまでの詩歌集だったことがうかがえる。

 近年、晋作の故郷山口県では「歴史」は「ロマン」だとし、それを「史料」によって傷つける奴は県民の敵だ、攻撃せよといった、信じ難いくらい馬鹿馬鹿しい理屈がまかり通っているらしい(大分迷惑を被った)。

 だが、私に言わせれば失われたはずの紙片が、百数十年の時空を越えて出現することこそ「ロマン」である。「小倉人南護」が持っていた半丁はいまなお、どこかに存在するのだろうか。私の中で、さらなる「ロマン」は続く。

 最後に今回の史料の行方についてだが、流出しそうなので個人で購入しておいた。吉田松陰は、

「今吾が骨は未だ何れの所に暴露するのか知らず、しかれども公先づ吾が文を録存せば、吾れ道路に死すと雖も可なり(自分はどこで死ぬか分からないが、書いたものが保存されるのなら、たとえ道端で死んでも構わぬ)」

「遺著を公にして不朽ならしむるは、万行の仏事に優る(著作を出版して残してくれる方が、一万回坊さんに経を読んでもらうよりもいい)」

 とか述べている。そのことが、いつも私の心にひっかかる。なんとか賞作家により創られた「ロマン」ではない。遺墨には、若くして死なねばならなかった、かれらの本当の思いが籠もっているはずなのだ。

(『晋作ノート』39号、平成29年3月)


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