晋作が描いた関門海峡

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 高杉晋作の画賛扇面(以下、扇面と略称)が市場に出て来た。扇面の一面に水墨画が描かれ、賛として七言絶句が添えられている。私もずいぶんと晋作の遺墨を見て来たが、あまり他に類を見ない面白い史料だと思い、個人で購入することにした(最近、市場には晋作の貴重な史料が続けざまに出て来る)。

 晋作の「自画自賛」なるものは、骨董市場などでたまに見かけることがある。だが、それらは明治以降、晋作人気に当て込んで作られた贋作である場合が、ほとんどだ。

 晋作の遺墨は、たとえ写真図版でも近年まで公開される機会に乏しかった。だから贋作を作るにしても、限られた「お手本」しか無かった。贋作の大部分は、数少ない「お手本」をいろいろとアレンジしたものか、あるいは好き勝手に書いたものかのいずれかであることが多い。この点、早くから遺墨集などが何種も出版され、ひじょうに贋作が作られ易い環境にあった西郷隆盛や吉田松陰の筆跡とは違う。

 今回紹介する晋作の画賛扇面には、次の七言絶句が小さな文字で書かれている。

「此是奇兵古

 戦,砲台々上

 草茫々同人

 埋骨知何処

 觸岸波声

 訴恨長 場

  潜狂生題」

 読み下すと、「此は是れ奇兵の古戦場。砲台々上草茫々たり。同人骨を埋む知ん何れの処ぞ。岸に觸るる波声恨を訴えて長し」(『高杉晋作全集・下』昭和四十九年)となる。一連目の「場」の一文字を書き忘れたので、「戦」の下に点を付けて、最後に加えているのも、リアリティがある。

 この七言絶句は、作られた時期がはっきりしている。晋作自筆の詩歌草稿「捫蝨処草稿」(『高杉晋作史料・二』平成十四年)の中に、

「乙丑(慶応元年・一八六五)七月十七日、馬関を発し吉田駅へ趣むく途上、壇浦・前田両砲台を過ぎ感有り」

 という題のもとに、書かれているのだ。この日、晋作は馬関(下関)から奇兵隊陣営のある吉田村に向かった。途中、前年八月に奇兵隊が四カ国連合艦隊と死闘を繰り広げた、壇ノ浦と前田の砲台を通過する。そのさい作った詩なのだ。峯間鹿水『高杉東行詩文集』(大正七年)には、この七言絶句の総解として次のようにある。

「こゝは奇兵隊の古戦場である。砲台の上に草が茫々と茂つてゐる。奇兵隊の連中が骨を埋めたのは何の辺か知らん。岸に打ち寄する波の音は、恨を訴ふるものゝ如くである」

 それは、どんな戦いだったのか。たとえば、奇兵隊士金子文輔の日記「馬関攘夷従軍筆記」には、四カ国連合艦隊との凄まじい戦いの様子が、生々しく記録されている。壇ノ浦砲台を死守する隊士に敵の砲弾が命中して、その遺骸がばらばらになったとか、「前田砲台は尤も多数の弾丸を被り弾丸又尽きんとすと」などとある。

 ただし、晋作は四カ国相手の戦闘には直接参加していない。戦後処理である講和談判で活躍したことは周知のとおりだ。無論直後の戦場は目撃しただろうし、戦いにかんする様々な情報は耳にしていたであろう。

 そして、この戦いにおける苦い経験を経て、長州藩は排他的な攘夷論にピリオドを打ち、新たなる開国への道を模索してゆく。一方、西洋列強も長州藩の凄まじいエネルギーを評価。この詩には、そこに至るまでに生命を散らせた者たちに対する、追悼の意が込められているのだ。

(2)

 扇面に書かれた七言絶句の筆跡は、どの文字をとってもこの時期の晋作の筆跡の特徴が出ていて、それは気持ち良いくらいである。だが、もし「お手本」があったとしたら、それを上手に写しとった贋作かも知れない。あまりにも出来過ぎた史料には、さらなる注意が必要だ。

 管見の範囲では、この七言絶句の晋作直筆は「捫蝨処草稿」に書きとめられたものの他に、長府藩の興膳五六郎に書き与えたもの(個人蔵)が一点あるのみだ。活字では『東行遺稿』(明治二十年)などに収録され、古くから知られていた詩だが、晋作直筆の図版が書籍などに掲載されたのは、近年のことである。

 いずれも私が自著の中で、図版で紹介した。草稿の方は『高杉晋作漢詩改作の謎』(平成七年)に、興膳に与えた方は『高杉晋作史料・二』に、それぞれ出ている。

 平成七年以前はこの詩の直筆を、図版で見る機会は一般には無かったと言っていい。つまり贋作を作るにも、「お手本」がなかったのだ。この点だけ見ても、今回の扇面の信憑性は高い。

 

(3)

 詩の後の款記が「潜狂生題」となっているのも、興味深い。言うまでもなく「潜」は、晋作の別名「谷潜蔵」から来ている。

 幕府からマークされていた晋作が、「谷潜蔵」と改名するのは慶応元年九月二十九日のことだ。それは藩命で行われた、正式なものである。よって扇面も慶応元年七月十七日に作った七言絶句を、改名の沙汰が出た九月二十九日以降に揮毫したものと考えられる。

 ただ、似たような款記の現存例は、あまり多くない。『高杉晋作史料・二』に紹介した次の二点くらいしか、私は知らない。

 ひとつは坂本龍馬に与えた「詩書扇面」(個人蔵)で「辱知生潜拝生」とある。

 いまひとつは、児島高徳の言を揮毫した偏額書(周南市美術博物館蔵)で、「潜狂生謹録」とある。

 宮地佐一郎編『坂本龍馬全集・3版』(昭和六十三年)では龍馬に与えた扇面を紹介し、款記を「辱知生澗拝草」と読んでいる。そして「澗」につき「澗は谷と同義で、谷梅之助即ち高杉晋作である」と説明する。事実とすれば他に類を見ない款記だ。晋作はこのころ谷姓を名乗っているから、あり得ない話ではないと思う。

 しかし、龍馬に与えた扇面の実物を間近で見たさい、私は「澗」ではなくて「潜」と読んだ方が、よいのではと思った。児島高徳の言を揮毫した偏額書も、同様。だから『高杉晋作史料・二』にこの二点を掲載したさいは、いずれも「潜」と翻刻しておいた。

 このことは、たとえば慶応元年十月二十一日・同年十一月二日の木戸寛治(孝允)あて晋作書簡(いずれも宮内庁書陵部所蔵「木戸家文書」)の署名部分の筆跡「潜」の字と比較しても、「澗」ではなく「潜」と読むのが妥当であることが分かる。だから今回出て来た扇面は、管見の範囲では三点目の「潜」と款記した揮毫ということになる。

(4)

 最後に、絵の部分について触れておく。

 晋作が描いたと云われる絵で、確かなものは極めて少ない。この扇面も絵部分を、晋作が描いたのかについては、確証がない。比べる他の例が、殆ど無いのである。ただ、絵の方には別の署名もないから、詩とともに晋作が描いたと考えるのが自然ではある。

 では、「アーティスト晋作」は何を描きたかったのだろうか。画題は当然、七言絶句の内容と関係するものだろう。下関の海岸線が真ん中あたり、下方は草が茂る砲台跡、上方の空白は海(関門海峡)を表しているようだ。手際よく描いたようだが、あまり巧い絵にも見えない。

 現状は広げられて台紙に貼られ、軸装されているが、本来は扇だから、骨が入り、折り畳みが出来るようになっていたはずだ。「アーティスト晋作」が揮毫した時の、山あり谷ありの状態にすれば、もう少し絵が理解出来るかも知れない。そこで写真に撮ったものを折り、本来の状態の再現をこころみる。

 だが、しかし…雰囲気は若干変わったものの、やはり何となく理解し難い絵ではある。果たして「アーティスト晋作」の画力は、いかが。この点については、今後の課題としたい。

  (「晋作ノート」37号、平成28年7月)


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