吉田稔麿の父の故郷
松陰門下の俊才で、池田屋事変に散った吉田栄太郎(稔麿・年麻呂)の家は、十三組中間(大組中間)という階級に属していた。軽卒とか雑卒とか呼ばれる下級武士のひとつで、苗字も公認されていない。この階級は幕末、長州藩内で四百人いたという。それが十三の組に分かれていたから、その名があった。
栄太郎が安政五年(一八五八)十一月にまとめた『吉田氏家譜』によると、吉田家の先祖はどこから来たか分からないという。栄太郎より五代前の某(名前不詳、文政七年〈一八一〇〉没)が坂氏に仕え、軽卒の身分を手に入れた。その後は喜兵(寛政七年〈一七九五〉没)、新平(文政十二年〈一八一五〉没)と続く。
新平は周防田布施(現在の山口県熊毛郡田布施町)の東家から喜兵衛春久を養子に迎えるが、かれは栄太郎の祖父にあたる。喜兵衛の妻は家付きではなく、岸田という家から嫁いで来たから、いわゆる「とり子、とり嫁」だ。この夫婦の間には娘が三人生まれたが、男子が無かったようで、長女イクが養子を迎えて家を継ぐことになる。
なお、喜兵衛は風流な遊びを好み、天保十年(一八三九)十月二十四日、大坂の酒楼で火鉢に当たり、浄瑠璃を口づさみながら亡くなったという。それから一年ほどのちに、栄太郎が生まれた。栄太郎の母はイク、婿養子である父は玖珂郡余田村(現在の山口県柳井市)の河村清三郎の息子清内秀清である。
先日、清内の故郷である余田を訪ねる機会があった。かつては萩の本藩領だった余田は柳井市西端に位置し、田布施町や平尾町に隣接する。田が余るというほど、豊かな田園風景が広がるが、清内の生まれた河村家は余田の南、尾林という集落の高台にあった。このあたりには河村姓の家が何軒かあるというが、柳井市在住の福久洋志さんが事前に調べておいてくれたお陰で、お目当ての家に直行することが出来たので大変助かった。
昭和二年(一九二七)生まれの河村太郎さんが現当主。国鉄を退職後、故郷で農業を営んでおられる。河村家は泉州堺から来た平家の落人と伝えられ、江戸時代は農家だった。石垣の上に建つ現在の家屋は、明治半ばのものらしい。太郎さんの祖父にあたる斉(ひとし)は明治元年(一八六八)生まれで、書や漢詩を好み、余田村の村長を務めた実力者だったという。その斉の父の種三郎が、年齢から考えると栄太郎の従兄弟ではないか。栄太郎の父が出たことを、河村家では大変誇りにしておられる様子だった。
実は栄太郎も、父の故郷余田を訪れた形跡がある。河村家の向かいは吉永家というのだが、同家には天保のころ建てられたという古い土蔵がある。残念ながら老朽化が進み、崩れかかっているが、ここに栄太郎が一時期隠れていたとの話が伝わっているのだ。栄太郎は万延元年(一八六〇)十月、兵庫から出奔して中国地方各地を巡ったのち江戸へ行くのだが、その途中立ち寄ったのかも知れない。
さらに吉永家には栄太郎の形見という、脚絆が一対伝わる(写真)。表は白と青の縞模様、裏は青一色である。明治百年のころ、柳井市でも記念展が行われたが、そのさい出品された。ほかに巻物に仕立てた栄太郎の手紙などがあったというが、いまは蔵の二階に埋もれてしまい、見当たらないのだという。ためしに蔵に入れてもらったが、ありとあらゆる物が山のように積まれ、捜し出すのが容易ではないことがすぐに分かった。
河村家と吉永家は現在では親戚だが、その関係が築かれたのは戦後のことで、幕末当時がどうだったかは分からないという。それにしてもなぜ、清内は瀬戸内に近い余田の農家から日本海側の萩に来て、下級武士の養子になったのか。栄太郎の祖父は隣の田布施出身だったし、竹馬の友である伊藤博文も、すぐ近くの束荷(つかり)(現在の光市)の農家出身だった。そのように考えると、この地方と萩の下級武士との間に、何らかの結び付きがあったように思えるのだが、いまはその答えが出てこない。
清内は明治十三年(一八八〇)五月五日に萩で亡くなった。法名は「松本軒真道秀清居士」。吉田家が萩の松本村新道にあったことに由来するのだろうが、故郷余田にちなむ一字も入れてあげたかったような気もする。
(「はぎ時事」平成24年12月7日)
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