晋作と『英国志』 (晋作ノート20号・平成22年11月)
一、内命
高杉晋作の生きた時代、大英帝国ことイギリスは世界の過半を影響下に置いている。晋作も渡航し、その目で国際情勢を確かめたいと熱望していた。
最初の機会が巡って来たのは、小姓として江戸で藩主世子に仕えていた文久元年(一八六一)九月九日のこと。晋作の『初番手行日誌』同日の条には、藩主から幕府遣欧使節団に加わるよう内命があったとし、
「それがしの心中、喜悦思うべし」
と、感激する。
使節団の代表は幕府外国奉行の竹内下野守保徳だ。孝明天皇が反対し、攘夷論が高まったため、幕府は安政五年(一八五八)に列強と約束していた兵庫開港、江戸・大坂の開市を延期する必要が生じた。そこで締盟各国(仏・英・蘭・普・露・葡)に使節を派遣し、交渉することとなったのである。
その計画を知った長州藩重臣の周布政之助は、藩主と世子の小姓役から各一人を、使節団に加えたいと願う。長州藩士ではなく、幕臣の従者という名目なら、それも不可能ではない。そこで、杉徳輔(孫七郎)と晋作が選ばれたのだ。
晋作は張り切る。同月十八日の日誌には「この節、英国史読むなり」の記述が見え、旅の予習を始めたことがうかがえる。続く二十日には、帰国する者に「航海行一件、愚妻に示す」よう言付けている。
二、晋作が読んだ『英国志』
晋作が読んだという『英国史』とは、長州藩がこの年出版した『英国志』のことだ。半世紀にわたり上海に滞在したイギリス人宣教師慕維廉ことウイリアム・ミュウヘッド(一八二二-一九〇〇)は、トーマス・ミルナー著のイギリス史書を漢文で訳し、『大英国志』全八巻として世に出した。その、さらなる翻刻である。
原本である『大英国志』の七巻は、イギリス開国起源から維多利亜(ヴィクトリア)紀に至る通史だ。第八巻は中国史の例にならい、職政・地理などの八志を略述している。これを安政六年(一八五九)、長州藩は江戸藩邸に勤務していた青木周弼に、幕府から許可を得て翻刻するよう命じた。
翌年、青木は萩の医学所好生堂に出仕する。そのため翻刻の仕事は、世子に仕える山県半蔵と侍医能美隆庵に引き継がれ、文久元年六月に完成した。書名を『大英国志』から『英国志』と変え、「長門温知社蔵梓」として江戸の書肆から頒行する。温知社は長州藩の江戸上屋敷内における蘭学の会読の会という。これが、日本で初めて出版された、まとまったイギリス史となった(日蘭学会編『洋学史事典』昭和五十九年)。
三、意外な出会い
晋作はこのように、出来上がったばかりの『英国志』を読んでいた。つづく文久元年十月二十日の条には、御国調役岡崎藤右衛門を訪ね、「欧羅巴(ヨーロッパ)行の事」につき「何か諸事相頼み申し候、いたって都合よろしき」と記す。その夜は、桂小五郎と両国河長へ行き、芸者を呼んで酒を飲み「はなはだ愉快」だったという。
さらに二十二日の条には、父小忠太から「航海行」についての手紙が来て「落涙々々」と、感激し記す。晋作と周囲の気持ちが段々と高まっていった様子が分かる。
ところが、ヨーロッパ行きの話は消えてしまう。長州藩からは一人しか同行が認められず、杉徳輔のみが選ばれたのだ。晋作はその胸中を記さぬまま、「初番手行日誌」は十月二十四日で突然途切れてしまう。
藩は気の毒に思っただろう。今度は幕府の貿易視察団に加わり、清朝中国の上海に渡航するよう命じた。沙汰が出たのは文久二年一月二日で、世子は五郎丸袴を与え、励ます。
こうして晋作は長崎に赴き、幕船千歳丸に乗り込む。四月二十九日に長崎港を発ち、七月十四日に帰着している。約二カ月間、上海に滞在し、見聞を広めたことは、晋作が著した「遊清五録」などに詳しい。アヘン戦争で中国がイギリスに敗れたため、列強の支配を受ける街を視察した晋作は、このままでは日本も上海の二の舞になるとの危機感を抱く。
このたび私は朝日新書の『高杉晋作の「革命日記」』(平成二十二年)を著すにあたり、あらためて「遊清五録」を何度か読んだ。すると五月二十三日の条の、面白い記述が目についた。同書から現代訳で紹介する。
「五代(才助・薩摩藩士)とともにイギリス人ミユルヘットを訪ねる。ミユルヘットは耶蘇教の宣教師だ。耶蘇教を上海の人々に布教してまわっている。城内の教会にもミユルヘットは関係しているらしい。ミユルヘットが常居している所には教会と病院があり、施医院と呼ばれている。すべての西洋人宣教師は教えを外国に広める場合、必ず医師を従えて来る。そして現地で病み、かつ窮している者があれば救い、入信させる。これは宣教師が教えを外国に広めるための術なのだ。わが国の士君も予防すべきだ」
晋作は「ミユルヘット」なるキリスト教宣教師に、あまり良い印象を抱かなかったようだ。晋作はキリスト教につき、「これは陽明学にそっくりだ。帝国の崩壊を引き起こすものだ」との危機感を抱いたという(内村鑑三『代表的日本人』)。
だが、この「ミユルヘット」こそ、『英国志』の原本『大英国志』の漢文訳者なのである。日記を読む限り、晋作は自分が前年読んだ本の訳者が眼前にいることに、気づいた様子がない。世界は広いようで、狭いのだ。
四、その後
上海視察を終えて帰国した晋作は、過激な攘夷論者となり、その年十二月十二日には品川御殿山に建設中のイギリス公使館を、久坂玄瑞ら十余名と共に焼き払ったりした。
だが、それは狂信的な攘夷論ではない。日本に迫り来る、列強の正体を知りたいとの思いは、つねに抱いていた。焼打ち事件の二カ月前、十月十九日に世子に仕える長州藩士長嶺内蔵太にあてた手紙に、長嶺と志道聞多(井上馨)に「外国行」の計画があることを知り、
「外国行きの儀は、弟(私)死地に入り候事につき、諸君に代わり弟つかまつりても宜舖とござ候」
と、自分を行かせて欲しいと売り込んでいる。この計画は翌三年五月、井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)・野村弥吉(井上勝)・遠藤謹助・山尾庸造(庸三)によるイギリス密航留学として実現した。
その後も晋作は、何かにつけて西洋行きの機会を狙う。野村靖の回顧録『追懐録』(明治二十六年)には、元治元年(一八六四)後半、「禁門の変」に敗れた長州藩が「朝敵」となり、恭順謝罪を唱える「俗論派」が台頭した時の、次のような逸話を紹介する。当時、長州に都落ちしていた三条実美ら五卿は、征長軍の圧力により、九州に移されようとしていた。そこで晋作が、
「空しく姦賊の手に陥れしめんよりは、暫く洋行せしめて時機を待ち、傍ら宇内の形勢を観察し、もって他日の用に供せしむるに如かず」
と、たまたま馬関にやって来ていたアメリカ軍艦に三条らを潜りこませようと提案する。さらにそれが実現するなら、
「吾輩もとより随行すべし。洋行の間十年を経るも、天下の事を謀るは未だ必ずしも遅しとなさず」
と言ったという。結局、この案には三条らは乗らなかった。これなどは、五卿をダシに使い、晋作が自分の願望を強引に果たそうとしている風にも見える。
さらに慶応元年(一八六五)と同二年にもイギリス行を企み長崎まで行くが、果たせなかった。そして同三年四月、数え年二十九で病死。晋作の胸中には海外を飛びまわりたいとの熱い思いが、最後まで消えなかったのではないだろうか。
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