随想・吉田稔麿(四題) (萩博ブログを改稿)

●伊藤博文の稔麿(栄太郎)評

初代内閣総理大臣となった伊藤博文が少年時代を過ごしたのは、萩の松本村だった。松陰主宰の松下村塾に入る前、伊藤は同村の久保五郎左衛門の家塾で学んだことがある。そのころのこととして、後年伊藤自身が語るところによれば、塾には七、八十人の門下生がいた。伊藤は何人にも後れを取らなかったが、

「独り吉田稔丸と称する者には一籍を輸したり、彼は実に天禀の英才なりし」

と語った(『伊藤公全集』三巻)。この談話は稔麿こと栄太郎を評するさい、よく引用される。栄太郎が明治まで生きていたら、伊藤を凌ぐ大人物になったに違いないという評価の根拠にもなっている。

伊藤の談話のオリジナルと考えられるのは、里村千介著『藤公美談』(大正六年)に収められた「藤公曰く、吉田稔麿には閉口」の一篇だ。里村は萩出身で、明治になり伊藤のもとで書生だった人。姉の吉子(大正六年当時七十三歳)は、伊藤や栄太郎と共に久保の塾で机を並べた仲だった。里村は伊藤より直接、先のような栄太郎評を何度も聞いたと述べている。

栄達を遂げた後の伊藤は、「幕末の志士」を語るさいはなぜか厳しく評する場合が多かった。そうした中でなぜ、栄太郎をかくまで絶賛したのか。その謎を解く鍵は、談話を聞き取った里村千介という人物にありそうだ。

栄太郎の母イクは吉田家の生まれで、清内を婿に迎えて家を継いだ。イクには妹が二人いたが、下の妹スミは下級武士の里村文左衛門(文衛)に嫁ぐ。ここで生まれたのが、千介であることに最近気づいた。つまり栄太郎と里村千介は従兄弟関係にあったのだ。

文久二年(一八六二)、叔母スミが出産したさい、栄太郎が慶びの言葉を送った手紙がある。

「やすやすと御産御済み遊ばされ、殊に男のかたのよし、さぞかし御よろこび候はん。影ながら私事も誠に、誠によろこばしふ存じまいらせ候」

とし、お祝いを送るとか、住吉神社へは自分からはお斎(とき)を送らないから、よろしく伝えて欲しいなどと従弟の誕生を祝う。

千介の父里村文左衛門を、栄太郎はあつく信頼していたようだ。安政五年(一八五八)六月十日、栄太郎が江戸から文左衛門にあてた手紙には、条約締結、勅許問題で揺れる朝幕間の情勢が、リアルに報じられている。

また、万延元年(一八六〇)十月、栄太郎が兵庫から突じょ出奔するさいは、父母にも残さなかった手紙を、文左衛門にだけは書き送っている。そして、「さぞさぞ父母当惑と竊(ひそ)かに掛念」しているので、文左衛門からよろしく伝えて欲しいと述べている。これを見ても、よほど栄太郎に対し理解ある叔父だったらしいことが分かる。

池田屋事変後の元治元年(一八六四)六月十二日、京都商人の塩谷兵助は栄太郎の最後の様子を、親しかった文左衛門に書き送り、その死を悼んでいる。これが近年、事変最中の池田屋に栄太郎が不在だったことを裏付ける史料として注目された。ちなみに文左衛門は明治二十年十二月二十七日、六十八歳で没し、萩の報恩寺に葬られている。里村家は長女吉子の伴侶となった丑衛が継ぎ、千介は別家を立てた。千介は昭和二年十一月四日没。

長々と書いたが、つまり栄太郎と血縁のある従弟を相手に伊藤が語った事なのだから、多少のリップサービスも含まれると思うという話である。そうした点を考慮して読まないと、なぜ、伊藤が栄太郎を特別扱いしているのかが分からない。

私個人の意見はというと、史料から浮かび上がる栄太郎の人物像は、上昇意識が強いという共通点はあるものの、伊藤とはかなりタイプが異なる。リーダーシップを発揮し、ぐいぐいと国を引っ張ってゆくような才能は、栄太郎にはあまり感じられない。諜報活動に従事し、みずからを「影武者」(山県小輔ほかあて書簡)と称しているところを見ると、裏方的な仕事を最も得意としたのではないか。幕末史の陰の部分を背負っている人物のような気がしてならないのである。

●元気すぎる稔麿

晩年(といっても、二十四歳で亡くなるのだが)の吉田稔麿(年麻呂)の史料を見ていると、長州藩からこき使われている感がしなくもない。

長州藩は文久三年(一八六三)八月十八日、京都で起こった政変により、失った地位を取り戻そうと企む。そこで幕府にも人脈を持つ、稔麿の存在が大きくなる。十一月十三日、稔麿は藩命により江戸に赴く。江戸で周旋した後、翌元治元年(一八六四)三月二日、江戸を発ち同月七日京都に入る。

藩の命運を背負って立つ仕事に従事する稔麿は、よほど張り切っていたのだろう。それを見た同志の久坂義助(玄瑞)は、

「吉田年丸(稔麿)もこの内より上京いたし候につき、年丸のはは(母)へお伝えなさるべく候。すこやかすぎるほどすこやかにおりまいらせ候」

と、故郷の妻に書き送っている。健やかすぎるほど健やかというのは、一体どれほど元気だったというのか。あるいは久坂は、元気すぎる稔麿を持て余していた風にもとれる。

そんな元気を買ったのか、久坂は稔麿に京都河原町の藩邸内、願就院に安置されていた洞春(毛利元就)・観光(毛利宗広)両公の霊牌を護持し、帰国するよう命じる。四月六日(四日というが誤りだろう)、京都を立った稔麿は十五日、山口に着き、興国寺に霊牌を納めて役目を果たす。

半年近い長旅がやっと終わったと一息つく間もなく、藩は元気な稔麿に折り返し東上せよとの苛酷な指令を出す。藩主の幕府あて嘆願書を届ける「飛脚」となった稔麿は、山口から江戸を目指す。

途中、稔麿は京都に立ち寄った。そして、失地回復のため、京都留守居役として奔走中の桂小五郎に嘆願書を託す。稔麿は江戸行きを中断し、京都に留まることになった。五月十五日、江戸での理解者である旗本妻木向休(田宮)にあてた手紙には、江戸に行けない理由のひとつとして、

「持病の痳疾相激し、旅行難渋につき」

と述べる。

以前、江戸大塚に住んでいたころは「女郎買い」(来島又兵衛あて、文久元年)に行ってますと、得意げだった稔麿だ。そのころもらったのかは不明だが、実は下半身の病気を患っていたらしい。十分な休養もとれず、悪化したのではないか。なんだかモゾモゾしていたのかもしれぬが、久坂もそこには気づかなかったのだろうか。

こうして稔麿は、しばらく京都に滞在することとなった。それから忙中閑ありとばかり、悠長に芝居見物など楽しんでいたが、六月五日夜、いわゆる池田屋事変で二十四歳の生命を散らす。妻木あての手紙を書いた、二十日ほど後のことである。

「あのまま江戸に向かっていたら、こねいなことにならんかったのに…」

と、同情してくれた人がいたかは知らない。

●槍の栄太郎

吉田栄太郎(稔麿)は「槍」と縁のあった男だと思う。家格は十三組中間で、これは槍持役だった。嘉永六年(一八五三)六月、アメリカのペリー来航を江戸で目の当たりにした十三歳の栄太郎は発奮し、翌安政元年(一八五四)九月五日、小幡源右衛門に入門して宝蔵院流の槍術稽古に汗を流す。そのさい提出した誓書の署名は、

「柴田栄太郎(花押)」

となっている(吉田栄太郎日記)。吉田でないのは、なぜか。推測するに、彼の身分では他人の槍は運搬しても、自分で稽古することは許されなかったのではないか。そこで、柴田という親戚(母の妹の嫁ぎ先)の姓を使ったのかとも思うが、これはまあ想像だ。

どれ程強かったのかは分からない。しかし文久三年(一八六三)三月ころには、親しかった幕府旗本の妻木向休(田宮)から、槍の穂先を貰っているから(同月十七日母あて書簡)、栄太郎といえば槍といったイメージが出来上がっていたのかも知れない。

そして、栄太郎は元治元年(一八六四)六月五日夜に亡くなるのだが、最期の様子については諸説ある。栄太郎こと稔麿は、京都三条の池田屋で同志と談合中、新選組に襲われたが、虎口を脱して一旦は河原町の長州藩邸に戻った。しかし槍を持って再び飛び出して、新選組と闘って死んだのだという。その時の相手が、新選組一番隊長の沖田総司だったと書いたのは子母沢寛の『新選組始末記』だが、これは創作と考えていいだろう。

最近注目されているのは事件直後に京都商人塩屋文助が、栄太郎の叔父里村文左衛門にあてた手紙だ。これによると栄太郎は新選組が斬り込んださい、池田屋にはいなかった。にもかかわらず、藩邸から出て行ったところを殺されたらしい。殺したのはおそらく、市中警備を担当していた京都守護職の会津藩だろう。池田屋にたどり着く前(しかもこの時の栄太郎が、池田屋を目指していたとの確証も得られない)、新選組に遭遇する前に会津藩士に道ばたで斬られたとすれば、最期のイメージはずいぶんと異なる。

ではなぜ、栄太郎は殺されてしまったのか。史料からすると、現場は長州藩邸と加賀藩邸の間だ。いまの御池通りあたりで、三条小橋袂の池田屋からは数百メートルも離れている。そんな所を歩いて(あるいは走って)いるだけで殺されたというのは、ちょっと納得がゆかない。ずいぶん乱暴な話である。

栄太郎が急を聞いて藩邸を飛び出したのだとしても、会津藩士にシラを切れば済む話ではないか。ただ、この時栄太郎が得意の「槍」を担いでいたとすれば話は違ってくる。会津藩士は当然、職務質問するだろう。

「貴殿、その槍は何でござるか?何で槍を持っておられる」

「何って…(モゾモゾ)」

「怪しい奴じゃ、一緒に来てもらおう!」

「うわーっ」

と槍を振りかざした途端、会津藩士からばっさり斬られてしまうといった場面が目に浮かぶ。

「槍さえ持たなければ、死なずに済んだものを」

と、同情する者がいたかは知らない。

こうなると、果たして栄太郎は「池田屋事変殉難者」と言えるのだろうか。微妙な感じがしないでもない。事変一週間後、山口の長州藩政府に届いた報告によれば、栄太郎こと稔麿は「邸前」で「何者とも相知れず」に「不意に暗殺」され、「即死」したとある。あくまで「不意」に「暗殺」されたのであり、池田屋事変との関連は記されていない。

遺骸の扱いも違う。池田屋で亡くなった宮部鼎蔵ら「殉難者」の遺骸は、京都守護職により三条の三縁寺に埋葬されたようだ。しかし栄太郎の遺骸は長州藩が引き取り、東山の霊山に神式で埋葬している。

当初は「池田屋事変」とは別の「吉田稔麿暗殺事件」として認識する者がいたということだろう。それが維新後、広義な意味での池田屋事変殉難者に含まれるようになったとの見方も出来るのではないか。

●俊さんのこと

吉田稔麿こと栄太郎の写真や肖像画は一枚も残されていないと以前も書いた。だから、その容姿を知ることは不可能かと思っていた。だが思いがけず、栄太郎の容姿を探る有力なヒントが残されていることを、ご子孫から教えていただいた。

栄太郎の従弟里村千介の次男は、里村俊文(故人につき敬称略)という。明治になり伊藤博文(俊輔)の書生を五年ほど務めた千介が、伊藤にあやかろうと付けた名だ。

栄太郎の妹である吉田房子(フサ)や従妹である里村吉子は、俊文の容姿が栄太郎にそっくり、性格もそっくりだと、よく言っていたという。房子はこの少年を「俊さん」と呼んだ。俊さんは周囲から栄太郎にそっくり、そっくりと言われながら育った。

栄太郎をよく知る血縁者が、これほどの太鼓判を押したのだ。俊さんの写真を見れば、栄太郎の容姿がしのばれるはずである。そこで恐れながら、できるだけ若い時の写真はありませんかと、ご遺族に尋ねてみた。すると大正三年三月、九歳ころ撮影した写真を出して来てくださった。

なるほど、これが栄太郎かと私は思った。強く結んだ口、切れ長の目は意思の強さを感じさせる。典型的長州人の顔だろうが、少々エラが張っている。袴を着け、カメラを睨むようにして堂々と座る姿は十歳そこらの童には見えない貫禄がある。今風のイケメンではない、昔風の日本男児の顔だ。数々の史料から私が想像して来た栄太郎の容姿は、当たらずとも遠からずというところだった。

ちなみに栄太郎そっくりの俊さんは東京の大正大学を出、難波俊道と称する浄土宗の僧侶となり萩市の報恩寺住職を務めた。平成四年、八十七歳の天寿をまっとうされたとの事。私の母校の大先輩だったことにも、ちょっと驚かされた。俊さん先輩、一度お会いしてみたかった。それが残念である。

松陰門下の三傑で言えば、高杉晋作の写真は二枚残り、「乗った人より馬が丸顔」と言われる面長の容姿はよく知られる。久坂玄瑞の写真は無いが、容姿がよく似ていたという遺児秀次郎をモデルに描いた肖像画がある(『久坂玄瑞全集』口絵など)。これまで栄太郎だけが何も無かったわけだが、俊さんの若き日の写真をモデルに描けないだろうか。

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