栄太郎IN湊川 (萩博ブログ改稿)

吉田栄太郎(稔麿)という人物は写真はもちろん、肖像画の一枚も残っていない。よって、多くの歴史ファンが思い描く栄太郎は格好いい二枚目らしいが、私はどうしても三枚目にしか思えない。それは私の地元である兵庫県神戸市に伝わる、ある逸話から受ける印象による。

神戸っ子は同市中央区多聞通りの湊川神社を「楠公さん」と呼び、格別の親しみを抱いている。ご祭神は楠木正成。後醍醐天皇に仕え、鎌倉幕府打倒に活躍するも、叛旗をひるがえした足利尊氏との戦いに敗れ、湊川で自決した非運の武将だ。

神社が建てられたのは明治に入ってからだが、「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻む立派な墓は元禄五年に水戸藩主徳川光圀(水戸黄門)によって建てられた。以後、楠木正成は忠臣として称えられ、墓には参拝者が押し寄せる。ついには歯痛にご利益があるなどと、庶民の間で信仰されたりした。

幕末、天皇に対する忠義が重んぜられるようになると、楠木正成はさらに注目されてゆく。大の楠公信奉者である吉田松陰などは何度も湊川を訪れ、墓前で涙を流し、小遣いをはたいてグッズ(墓碑の拓本)を買い求めた。そして涙を流しながら、楠木正成物語を萩の松下村塾で門下生たちに語って聞かせる。

そうした影響を受けたのか、門下生の栄太郎も楠木正成には強い思い入れがあったようだ。ある時、湊川を訪れたさい、墓にすがりつき、

「日頃ながさん私の涙、何故にながれるみなと川」

と詠じながら、泣いたという。

私が栄太郎は三枚目だと想像するのは、このあたりだ。考えてもみよ。もし、栄太郎の生涯が映画にでもなった場合。二枚目が演じる栄太郎がいきなり墓に抱きつき、泣きながら歌を詠じたら変ではないか。そこで、映画のタッチは急変する。三枚目なら周囲が呆気にとられ、遠巻きに感激屋の栄太郎を見守るといった名場面になると思う。

さて、この下手ながらも分かりやすい歌だが、栄太郎自筆では残っていない。神戸商工会議所理事の福本義亮(椿水)が、昭和十八年二月、神戸の相楽園で開かれた「勤皇遺烈追慕座談会(第二回)」で披瀝した話である。これに対し、神戸市嘱託で市史編纂にあたっていた岡久謂城(父は長州藩出身)は、

「その御話も非常に興味がありますが、吉田稔麿の書いたものが御座いますか、それとも何かに」

と問う。すると福本は、

「夫(それ)は述懐でして、書いたものは御座いません」

と返答している。

神戸の実業界で名をはせた福本は、松陰や栄太郎と同じ萩の松本村出身だ。松陰の熱烈な信奉者であり、遺墨コレクター、研究者としても知られる。『吉田松陰殉国詩歌集』『松陰先生交友録』『大楠公と吉田松陰』『吉田松陰孫子評註訓註』『坐獄日録訓註』『吉田松陰の最期』『下田に於ける吉田松陰』『松陰余話』『吉田松陰の母』『吉田松陰の愛国教育』など、松陰に関する著作も多い。そんな福本の言だから、自筆が無いからといって、私は無視出来ないのだ。

福本は昭和八年に出版した大著『吉田松陰の殉国教育』の六六〇頁でも、

「 湊川にて

日頃流れぬわたしの涙、何むで流るゝ湊川」

と、紹介している。その話を福本は萩で得たのか、神戸で得たのかは定かではない。これが龍馬や晋作ならいざ知らず、一般には殆ど知られていない栄太郎の名を、作り話まででっち上げて利用する必要は感じられない。だから、何らかの典拠があったと思うのだが、分からないのが残念である。

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