晋作と稔麿 (萩博ブログ改稿)
吉田稔麿こと栄太郎は、松下村塾で高杉晋作と共に吉田松陰に師事。草創期の奇兵隊にも参加した。幕府・長州藩間の関係修復のため周旋するも、元治元年(一八六四)六月、京都で起こった池田屋事変において、二十四歳の命を散らせる。
松陰は塾生の中で栄太郎を、とりわけ愛した。晋作を陽頑、栄太郎を陰頑と評した。そして、栄太郎の将来を晋作に頼んでいる。二人は、何かにつけて対称的だ。栄太郎は武士としては最下級の中間の家の生まれ。一方、晋作は代々藩主側近を輩出した馬廻りの名門の御曹司である。しかも晋作の父は若殿様の教育掛であり、晋作も将来は藩重役の椅子が用意されていることは、だれの目にも明らかだった。
松陰はゆくゆく、晋作が栄太郎を引き立てて欲しいと願ったのだろう。たとえは安政六年(一八五九)五月十三日、野山獄中から松陰が晋作にあてた書簡には、栄太郎のことを「日夜憂念致し候」とある。あるいは同年十月七日、江戸伝馬町獄中から、晋作にあてた松陰書簡には「吾深く栄太が心事を知れども、栄太遂に棄難し」など、師弟間に齟齬が生まれたことを深く嘆く。そのさい、栄太郎の家庭の事情まで晋作に説明し、晋作に理解を求めている(松陰は同月二十七日刑死)。
ただ、意外なことに晋作・栄太郎の自筆史料には、その関係を示すものは皆無ではないのだが、意外と乏しい。往復文書などは一通も確認できない。思いつくと言えば安政四年八月、江戸に赴く栄太郎に、晋作が書き与えた送叙だろうか。
ただ、二人の関係を示すエピソードは、いくつか存在する。牧野謙次郎が史談会(明治のころ創られた半民半官の維新史料収集の会)などで得たという逸話を綴った『維新伝疑史話』には、次の三話が紹介されている。
「高杉晋作と吉田稔麿
長の高杉晋作、酒を使ひ酔へば輙ち傍人を苦しむ。同藩吉田稔麿之と飲む毎に、必らず先づ自から酔歌起舞、務めて其の挙動を壮快にし、晋作の為す能はざる所に出づ。晋作駭愕常に之を制止す。曰はく、吉田と飲むは、吾竟に醒人たるを免れず、入江九一亦善く晋作を制す。酒酣に晋作の暴行を為すや、九一故らに頭を垂れ黙坐、其の為す所に任す。良々久しうして頭を昂げ、一睨して曰く、高杉さん余りでありませうと。晋作憮然乃ち止む」
晋作は酒量は多くなかったが、酒癖があまりよくなかったようだ。酔った勢いで、議論を吹っかけたりしたという。それを知っていた栄太郎こと稔麿は率先して歌ったり、踊ったりして、晋作の出端を挫いたというのだ。
面白い逸話だが、栄太郎自身も酒癖がよくなかったらしい。下関竹崎の商人白石正一郎の日記、文久三年(一八六三)八月九日の条には、酔って同家を訪れた栄太郎が、連れて来た芸者らと大騒ぎのすえ「抜刀、燭台畳などをきり申し候」と、記されている。こうして見ると案外、栄太郎の方が晋作よりも早く酔っただけの話かもしれないと思ったりする。
「山県有朋稔麿の人物を問ふ
吉田稔麿学を吉田松陰に受け、久阪玄瑞、高杉晋作と共に松門の三傑と称せらる。後に池田屋の変、割腹して死す。山県狂介(有朋)嘗て晋作に問うて曰はく、僕を以て吉田氏に比せば果して彼に幾籌を輸するか。晋作哂つて曰はく、物を擬するに倫を以てす。吉田をして坐敷に居らしめば、汝輩は玄関番にもなり難し。諺に云ふ、味噌も糞も一つにするとは汝輩の謂なり。」
「吉田稔麻呂
吉田稔麻呂、長の奇傑士なり。嘗て放牛を画く、下に烏帽木剣及び一木を添ふ。山県狂介傍に在り、故を問ふ。稔麻呂曰はく、高杉は逸気俊才覇束すべからざること猶ほ奔牛のごときか。久阪玄瑞は気度高尚、亦廊廓の器なり。入江九一は稍々駑なりと雖ども亦以て木剣に当つべし。斬ること能はざれども、亦以て人を嚇すべし。狂介曰はく一木を画く者は何の故ぞ。稔麻呂かつて曰はく、此れ乃ち汝なり。徒に碌々員に備ふるのみにして他の言ふべき者なきなり。亡友中原銕蕉(邦平、公爵毛利家編輯所長)嘗て伊藤春畝(博文)に問ふに、吉田の事を以てす。春畝口を極めて之を称す。銕蕉曰はく、未だ審せず、其人明公と孰れぞや。春畝蹴然として曰はく、吉田氏何ぞ当るべけんや。天下の奇才なりと。品川弥二郎嘗て嘆じて曰はく、吉田氏の予に於けるるや、之を譬ふるに、予は玄関に坐して彼は則ち座敷に在りて、一室を隔て、二室を隔て三室を隔てゝ予之を拝して猶ほ自から我が敬礼の足らざるを覚ゆ。彼は誠に天下の豪傑なりと。」
この二つの逸話からは、夭逝した者に対する後世の人々の期待を感じさせる。あの人がいま生きていたら、どんなに素晴らしい仕事をしたか…という思いだ。松下村塾出身の政治家品川弥二郎は、栄太郎が生きていたら総理大臣になったと語ったと、得富太郎『幕末防長勤王史談』六巻にもある。
同じく勤王史談の五巻には、下関で幕船朝陽丸を奇兵隊が拿捕したさい、解決のために栄太郎が赴く逸話が出てくる。重役の周布政之助に抜擢された栄太郎は「身分が必要なら錦の直衣を被ればよい!」と、「毛利の倉から出して貰つて紗(しゃ)の烏帽子に金襴の陣羽織を着用」して、下関に向かう。
威風堂々と下関に乗り込んだ稔麿と、晋作の会話が面白い。
「栄太、何(ど)うした其姿は?」
「ウム、今日は只の栄太郎ぢゃ無い。殿様の御名代ぢゃ、晋作頭が高い!」
「オヽ、豪(えら)い、さうでなくては駄目だ、しっかり頼むぞ」
「ハッ、ハッ、ハヽヽヽハ、高杉君今日は許せよ」
史実ではちょっと考えられない会話である。講談本の創作された会話だから、どうでもいいのかも知れない。しかし私は、栄太郎の本音を言い当てているようで感心させられた。
栄太郎の一生は、下級武士コンプレックスにまみれていた。現存する数十通の栄太郎書簡を読むと、他人が自分に対して平身低頭したのを「かよう相成り候こそ武士の本意」と喜ぶ。あるいは、遊興のため公費を沢山使えたと感激する。どうしても卑屈な側面が見え隠れするのだが、そんな稔麿が晋作に対し、憧憬以上の気持ちを抱いていたことは想像に難くない。近寄り難い存在だったのかも知れない。
晋作は毛利家恩顧の臣であることを最大の誇りとし、死して忠義の鬼になりたいと願う。晋作は治者として、馬廻り役の武士という身分に限りないプライドを抱いている。ただ、誤解してはならないのは下級武士や、庶民を蔑視しているわけではない。彼らは治者である武士が守り、慈しんでやらねばと考える。差別している気持ちはさらさら無い。
日本人というのは変てこな国民で、大抵が自分は武士の子孫だと勝手に思い込んでいる。だから武士の物語が大好きで、武士道などと言われるとやたらと興奮する人がいる。数年前のある映画のキャッチコピーに、侍の血を引くすべての人々に―とかいうのがあり笑った。珍妙なコピーである。
長州藩の場合、武士は下級まで含めても一割にも満たないだろう。なんだかんだ言っても栄太郎は特権階級に属しており、その中では下の方に位置するという話である。そして本人は上昇志向が強かったから、コンプレックスも人一倍持っていたのだ。だが、庶民からすれば、栄太郎は憧れの存在だろう。こうした感覚を忘れずに、栄太郎という人物の思考を考えたいと思う。
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