「御楯組血盟書」を読む

(1)

 いまから三年前の平成二十九年、萩博物館では晋作没後百五十年を記念し、特別展「高杉晋作の決意」を開催したが、展示の目玉のひとつが血痕鮮やかな「御楯組血盟書」だった。文久二年(一八六二)十一月十三日、横浜金沢で外国人襲撃に失敗した晋作とその同志たちが、不屈の決意を誓い血盟した貴重な史料だが、展覧会当時はひと通りの解説しか出来なかった。血痕の量から各人の性格がうかがえるので注目して欲しいなどと、ギャラリートークで話した記憶がある。そこで本稿ではこの血盟書から何が読み取れるのか、もう少し考察してみたい。

 血盟書は長さ三メートル余りもあるが、半分ほどは趣旨を述べた前文で占められている。まずは「この度我々ども、夷狄を誅戮し、その首級を提げ罷り帰り、きっと攘夷の御決心遊ばされ、今般仰せ出で候勅意、速に貫徹致したく存じ詰め発足候ところ、恐れ多くも世子君御出馬遊ばされ候て、壮志感服の至り候えども、我等孤立にては心細きにつき、一先ず帰参、尊攘の実功輔佐くれ候よう、御懇切の御教諭仰せつけられ」云々と、計画が漏洩し、世子毛利定広が出馬して来たので中止に至った経緯がつづられる。

 それでも「百折不屈、夷狄を掃除し、上は叡慮を貫き、下は君意を徹する外他念これ無く、国家の御楯となるべき覚悟肝要たり」との初志貫徹の決意を求め、秘密の厳守や結束を確認した後、「右同志の契約、違背致し候時は機応も論弁せしめ、万一承引これなきにおいては組中申し合せ、詰腹に及ぶべし。よって天神地祇に誓い血盟すること件の如し」と、締めくくる。

 前文を書いたのは、筆跡から見て久坂玄瑞である。つづいて十一名が署名、血判しているのだが、その名は次のとおり。

 高杉晋作・久坂玄瑞・大和弥八郎・長嶺内蔵太・志道聞多(井上馨)・松島剛蔵・寺島忠三郎・有吉熊次郎・赤禰幹之丞(武人)・山尾庸造(庸三)・品川弥二郎。

 血盟書は後日、江戸・京都、そして国もとの同志にも回覧され、賛同した十四名の署名、血判が加えられるのだが、この部分についての考察は今回は割愛させていただく。この血盟による一団は、国家の楯になるとして「御楯組」と自ら称した。

(2)

 玄瑞はこの年三月にも、故郷萩で血盟書を作成している。それは脱藩し、薩摩藩国父島津久光の上洛に合流し挙兵するための結束を誓ったもので、二十一日に中谷正亮・久保松太郎・玄瑞、二十二日に松浦亀太郎・品川弥二郎・増野徳民・佐世八十郎が署名、血判している。六名のうち大組士は中谷・久保・佐世で、計画の中心は藩医で寺社組の玄瑞だった。玄瑞が格上の大組士三名を、仲間に引き入れたという感じだ。もっとも、この時は藩上層部の宍戸九郎兵衛らが動いて上京が実現したため、玄瑞らは脱藩せずに済む。

 当時、長州藩是は「航海遠略策」であり、提唱者の長井雅楽らが公武間を周旋中だった。しかし七月になり、藩是は「奉勅攘夷」に一転し、閏八月には叡慮も「攘夷」であると確認される。その流れの中で十一月十三日の外国人襲撃未遂事件が起こり、「御楯組血盟書」が作られた。署名、血判十一名の筆頭が「高杉晋作」なのは、身分格式から言っても当然だろう。前年三月には世子小姓役として初出仕した晋作は、この年夏に幕船千歳丸で清国上海に渡航し、情勢視察して帰国した若手高級官僚のリーダー格である。

 注目すべきは、晋作の次が「久坂玄瑞」になっている点だ。晋作から松島剛蔵までの六名のうち、玄瑞以外は皆大組士の高級官僚である。にもかかわらず、格下である寺社組の玄瑞が二番目に名を列ね、前文まで書いている。まずは玄瑞が、同志たちの主導権を握っていたことが読み取れる。それは、次のような理由による。

 突然「奉勅攘夷」を掲げ、中央政局に押し出された長州藩主父子は、玄瑞が持つ人脈や情報に頼らざるをえなかったのだ。玄瑞は万延元年(一八六〇)五月の江戸遊学以来、藩是とは関係無く、水戸・薩摩・土佐藩など諸国の同志たちと「横議横行」の政治運動を行って来た。そのキャリアを基に玄瑞は『廻瀾条議』を書いて藩主父子に提出し、通商条約の破棄、攘夷が急務だと説く。こうして玄瑞の急進的な攘夷論が、藩内を席巻してゆく。

 なお、外国人襲撃は実は玄瑞側ではなく、官僚の晋作・志道・大和・長嶺から出た計画だった。玄瑞はむしろ慎重論を唱え、晋作と激論する一幕もあったほどだ(中原邦平『井上伯伝・一』)。八カ月前の脱藩計画の時は玄瑞が上部を巻き込んだのだが、今度は上部が積極的で、玄瑞が巻き込まれる格好になった。二通の血盟書を比べると、長州藩の短期間における変化が読み取れる。

(3)

 「御楯組血盟書」は公文書ではないにせよ、非常に危険な名簿になってゆく。

 なぜなら、血盟で攘夷貫徹を誓ったメンバーが中心となり十二月十二日深夜、品川御殿山に幕府が建設中のイギリス公使館を焼き払ったからだ。参加者の考証は「御殿山英国公使館焼打ち事件」(拙著『高杉晋作考』)に譲るとし、血盟書十一名中から品川弥二郎が風邪で抜け、白井小介・伊藤春輔(博文)・堀真五郎・福原乙之進が加わった十四名で焼打ちを実行したようである。

 上野・墨堤と並ぶ桜の名所だった御殿山を外国人に奪われると嘆いていた江戸の庶民は、喝采を叫ぶ。だが言うまでもなく、焼打ちは重罪である。もっとも、建設の是非をめぐり、朝廷と外国の間で板挟みになっていた幕府は犯人捜しに消極的で、誰ひとり捕らえられなかった。

 当時晋作らは、血盟や焼打ちにつき書き何ら残していない。犯人が晋作らであると表立って知られるようになったのは、明治になり政治家として栄達を遂げた伊藤や井上が、若き日の武勇伝として自慢したからである。

 だが当時、犯人名簿とも言うべき血盟書が見つかっていたら、晋作らはもちろん、長州藩が吹っ飛んでいた可能性は否定出来ない。では、誰がそのような危険な名簿を管理していたのか。

 結論から言えば、血盟書の管理者は玄瑞である。玄瑞は、藩や同志の運命を握っていたのだ。この点からも、玄瑞が同志間で重きをなしていたことが読み取れる。血盟書を懐にした玄瑞は十二月十三日、江戸を離れ、信州を経て京都へ向かう。

 明けて文久三年の桜を晋作は二月一日に墨堤で、同月十三日に伊藤俊輔と共に上野で楽しんだことが詩稿から分かる(『高杉晋作史料・二』)。しかし、御殿山に行った形跡が無いのは、ある種の後ろめたさからか、それとも造成により景観が失われていたからか。つづいて三月一日、江戸を発ち、京都を経て帰国したので、再び江戸の土を踏むことは無かった。晋作には、あと四年の生命しか残されていない。なお、現在の御殿山は造成、開発により大幅に地形が変わってしまい、花見の名所ではない。

 玄瑞は元治元年(一八六四)七月十九日、「禁門の変」で敗れ、京都で自刃して果てた。妻文(吉田松陰末妹)は美和子と名を改め、明治十六年(一八八五)、長州出身の群馬県令楫取素彦と再婚した。そのさい亡夫ゆかりの文書などを持参したが、中に血盟書があった。

 すでに焼打ちは「歴史」、名簿は「史料」と化していた。血盟書は巻子に仕立てられ、三条実美が「赤心報国」の題字を、明治二十三年四月には山田顕義が跋を書く。箱書も山田で、箱側面には「楫取素彦」の印を捺した蔵書票が貼られた(現存する)。

 しかし所蔵者は明治四十年刊『維新志士正気集』『井上伯伝・一』では井上馨になっており、この頃楫取から譲られたようである。

 大正四年(一九一五)、井上が八十一歳で他界した後も血盟書は静岡県興津の井上別邸長者荘の蔵で保存され、戦災も免れた。戦前はたびたび各地の明治維新関係の展覧会に出品されており、たとえば萩市でも昭和十年に借用して「防長勤王史料展」で展示している。戦後は事情があったようで、ほとんど人目に触れることはなかったが、近年になり他の史料とともに井上家から静岡市に寄贈され、再び日の目を見るようになった。

(『晋作ノート』49号、令和2年5月)



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