晋作のファンサービス

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 高杉晋作は数えの二十九で病没したが、その割には多くの揮毫(本稿では手紙や日記、詩歌草稿ではなく、あらためて書いたものを指す)を遺している。また、「贋作」はおそらく「真筆」の何百倍もの点数が存在する。理由は簡単、それだけ晋作の人気が高く、筆跡の需要があったからだ。高橋角太郎『勤王志士遺墨鑑定秘録』(昭和十二年)によれば、「恐らく古人の何流にも依らず、高杉一流の書体と断定する外はない…少しく長めの痩骨であり、何人にも判りよい特徴の一機軸を出せる書風」だという。

 現時点で私は晋作の揮毫を九十点ほど(写真版のみで原本は行方不明のものも含む)確認している。そのほとんどは『高杉晋作史料』二巻(平成十四年)と『久坂玄瑞史料』(平成三十年)に、写真版で紹介しておいた。紙数の関係からいちいち説明はしないが、うち七割ほどは慶応元年(一八六五)前半から亡くなるまでの、二年ほどの間に書かれたものと見ている。それ以前ならば、親しい者が求めたくらいだろう。ところが、藩内戦に勝利後の晋作は長州藩を刷新させた「救世主」となり、一躍知名度も人気も高まった。つづいて慶応二年八月一日、征長軍の本拠小倉を落城させるや、防長二州で「晋作ファン」は急増する。

 だが、晋作は同年八月下旬、結核の悪化により戦線を離脱し、下関で療養生活に入らねばならなかった。もっとも、時間的余裕は出来たので、病魔と戦いながら病床で筆を執り、多くの作品を遺している。短い人生最後の数カ月間の多くの時間は、「ファンサービス」ともいうべき揮毫のために費やされたようだ。

 その頃、晋作が小田村素太郎(楫取素彦)と野村素介の求めに応じた揮毫の「添状」がそれぞれ残っている(写真は『高杉晋作史料』一巻口絵参照)。「尊命に随い扇面を汚し」(小田村あて)、「命に随い揮毫」(野村あて)に始まる、いずれも短簡だが、筆跡は見るも無惨なくらい弱々しい。一文字ずつ確かめるように書かれており、勢いというものを感じさせない。ここまで体力が落ちていたなら、かんじんの揮毫の出来も、よろしくなかったのではないかと心配になる。

 慶応三年一月十七日、萩の父小忠太にあてた手紙には「私事も昨年より学画の志を興し候…竹計り学び候規定を相立て候」としながらも、病状が悪化し、やめたと知らせる。強い生命力を持つ竹(笹)に通じる「些々」の雅号を使ったのは、この頃だ。ただし、晋作が描いたという竹の画に、私はいまだお目にかかったことがない。また、同じ手紙では「暖気に相成り、病気少しく快く候はば、揮毫致すべきと相楽しみ居り候」と言いながらも、「揮毫も頗る胸痛に相障り困り入り候」と、悲嘆する。そして三カ月後の四月十三日、帰らぬ人となった。

 晋作に師事した土佐浪士の田中顕助(光顕)は慶応三年十月ころ、故郷の父に晋作の「写真」「長崎より(写真を)贈りくれ候時の書状」「詩三首」の三点を届けている。それらに添えられた手紙には「御秘蔵願い奉り候」とし、「長防にて先生の書一字一行といへども大切につかまつり候位の事にござ候」と知らせる。田中の熱心な「ファン」ぶりと、晋作の揮毫を求める者が多かったことを裏付ける。

(2)

 最晩年の晋作が好んで揮毫した「臨険臨危豈衆待 単身孤馬乱丸中 沙辺枕甲腥風夕 幽夢悠々到海東」という、自作の七絶がある。小倉方面の戦場を題材にしたものだが、甲を枕に寝ると風が腥(生臭い)というあたりは、なんともリアルである。

 管見の範囲では、この詩の揮毫は三点現存する。趣がかなり異なるのは、書いた時の体調や気分を反映しているのだろう。

 調子が良い時に書いたと思われるのが、霊山歴史館(京都市東山区)が所蔵する一幅で、款記の「偶成 東行狂生」にも自信が漲る。古くは渡辺為蔵編『維新志士遺芳帖』(明治四十三年)に柴田家門(山口県出身。文部大臣など)の所蔵として掲載されている。柴田没後、京都の実業家などの手を経、現在の所蔵となった。

 逆にかなり体力が低下し、調子が悪い時に書かれたと思われるのが、私が所蔵する一幅である。まず、筆に勢いが無いのは一目瞭然。一文字書いては休み、また一文字書いては休みながら、ようやく完成させた様子が目に浮かぶ。対峙していると、百五十余年前の重苦しい息づかいまでが伝わって来そうで、つらい。款記も「市隠生録近製」と、何やら自信無さげである。それでも注意すると、晋作の書風が随所に見える。

 慶応の頃、晋作は文人画家の田能村竹田の書を手本にしていた。「我れ竹田に似たるか、竹田我に似たるか」(横山健堂『高杉晋作』大正五年)と言ったという。しかし、それでも晋作なりの個性は大切にしたようだ。私がこの時期の晋作の筆跡を見る際、特に注意する文字に「月」「生」「風」などがある。

 全てではないが、「月」や「月」へんの一画目の最後を外側に向け、折れ釘のようにわざと角度をつけて払う特徴が見える。

 大抵の「生」は竹田に似るが、時にわざと反するように、最後の一画を流すように書くこともある。

 あるいは「風」の構えの最後は、内側に勢いよく撥ねる癖がある。花押で諱(春風)を書く際も同じで、慶応以前からの癖である。

 ただし、それらの特徴が見えるからと言って、即真筆というわけではない。逆も又然り。また、ひとつの揮毫中に同じ文字を複数回書く場合、違うくずし方をすることも多い。いくつもパターンを知っているという、教養の高さを顕示したいのだろう。

 さて、この詩の揮毫では「腥」「生」「風」の部分に、特に晋作の特徴が見える。調子が悪い方は、全体的に筆に勢いが無い。「腥」の「月」へんを書く時などは、一画目の最後で力が入らず、筆を紙から離したようである。その分、次の「風」「夕」は頑張っているが、以下は勢いが落ちてボロボロである。特に最後の二文字が痛々しい。「海」で一旦力尽き、次の「東」へ続かなかったのが分かる。それでも気を取り直し、なんとか「東」に取り掛かり、完成させたのだろう。ここまで体調の悪化をうかがわせる晋作の揮毫は、他に見たことが無い。あるいはこれが、最後の揮毫なのかも知れない。

 なお、晋作没後、土佐の中岡慎太郎がこの詩を揮毫したものが、京都大学附属図書館尊攘堂所蔵されていることを付記しておく。「丁卯端午(慶応三年五月五日)録、東行子詩、迂山(中岡の号)」と書き添えている。中岡は、晋作の詩を他にもいくつか揮毫している。そうして、晋作の「志」を藩外に広めようとしたのだろう(拙著『高杉晋作 漢詩改作の謎』平成七年)。

(「晋作ノート」48号、令和2年1月)


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