晋作と刀剣

高杉晋作と刀

上海で刀を見せる

 高杉晋作は根っからの武士であり、刀剣に強い愛着を持っていた。文久二年(一八六二)、清国上海に渡航した際、現地人に刀を見せて「我が心清潔、すなわち此の如し」と語ったと、『遊清五録』六月十九日の条に記す。刀は武士の魂であった。

 もっとも、晋作が使ったと断定出来る刀剣の実物に、私はいまだお目にかかったことがない。妹光子が継いだ高杉宗家に伝来した刀剣は数点見たが、いずれも晋作が使ったという確証は無い(四国艦隊との講和のさい、差して行ったとの「由来」つきの脇差もあるが、あれは根拠が無い近年に創られた「お話」であることを自省の念もこめて明かしておく)。晋作の刀と言われるものを個人で所持する方もいると聞くが、こればかりは筆跡などと違い、確かな裏付けが無い限り判断しかねる。

 大正五年(一九一六)五月十四日、東京の靖国神社遊就館において晋作五十年祭が行われたさい、遺品展も開催された(五月十四・十五日)。多くの遺墨・遺品が高杉家から出陳されたが、目録の中に刀剣類は見当たらない。高杉家では有名な産着や直垂をはじめ、晋作の遺品類については特別扱いして保存していた。だが、大正五年段階で同家にはすでに、晋作の「佩刀」「愛刀」と呼べるようなものは残っていなかった模様だ。

 遊就館の展示につき、奇兵隊出身の軍人政治家である三浦梧楼は「刀は無つたか…アノ大刀はどうしたかの…高杉の大刀と言やア、当時でもめざましいものだつた」(『日本及日本人・六七七号』大正五年)などと語っている。三浦の記憶によると、その「大刀」は晋作が薩摩行きを企んでいた時(慶応元年か)、薩摩武士に化ける必要があり、長崎で薩摩の伊集院金次郎(のち鳥羽・伏見で戦死)から譲られたのだという。

 晋作の孫高杉春太郎は昭和十六年(一九四一)夏、陸軍に召集された際、家伝の刀を軍刀拵えにして持参した。春太郎は満州各地などを転戦したが、敗戦により抑留され、刀はイギリス軍に没収されたという。以後この軍刀も行方不明になった。もっとも、高杉家ではこれを晋作の遺品として扱っていなかったようである。春太郎の子高杉勝は「刀の袋には古い血痕らしき染みがあり、不気味だった」と、少年時代の思い出を私に話してくれたことがあった。

田中光顕から譲られた刀

 晋作の愛刀のひとつは、土佐脱藩の浪士田中光顕(明治になり宮内大臣など)から譲り受けたものとされる。田中が晋作の詩文集『東行遺稿』(明治二十年)に寄せた序文に、元治元年(一八六四)秋のこととして「先生(晋作)余佩刀意欲獲之、余曰先生使光顕列門下」云々と述べる。田中は刀を譲る代わりに、晋作の門下に加えてもらったという。

 その顛末は、土佐出身の歴史家で田中とも親交があった岩崎鏡川が『日本及日本人・六七七号』に寄稿した「東行の佩刀」の中で、述べている。また岩崎は、どこから得た情報かは知らぬが刀につき「作は佐伯荘藤原貞安で、裏銘に永禄六年八月吉日と彫つてある。長さ二尺六寸あつて、焼刃の具合から錵(ルビ・ニエ)といひ●(鈎のムではなくヒ)(ルビ・ユホヒ)いとひ申分もなき良刀である」とする。さらに田中が慶応元年(一八六五)十一月一三日、郷里の両親にあてた手紙には次のような一節があるという。

「一日高杉先生に謁し、語剣事に及び、顕が所佩之刀を見て、大に懇望され、直に是を先生に譲りて、先生の門下となれり」

 この手紙を岩崎は、土佐の伊藤家から見つけたとし、「この一通のことは伯(田中)と雖も、或は今日忘却して居るかも知れぬ」「これがどうして、伊藤氏に伝はつたかは、善平翁死去の今日分らない」とする。また、岩崎は晋作が三十両で別の刀を贖い、田中に贈ったとも述べている。

光顕が語る友安

 田中光顕は九十四歳の年に改造社から『維新夜語』(昭和十一年)という回顧録を出した。その中には、刀を晋作に譲った逸話もある。同書によると田中は慶応元年(一八六五)八月、石川清之助(中岡慎太郎)とともに長州を訪れ、晋作に会った。その際、晋作は田中の佩刀に興味を示す。

「安芸国佐伯荘藤原友安の作で、永禄六年八月吉と銘が打つてある。中身は二尺六寸、焼と言ひ匂といひ、実に何とも言ひやうのない神品である」

 とまで、田中が自慢する愛刀である。晋作も「ふ―む、まことに見事な刀である。平素の御心掛のほど察し入る」とほれ込んで、ぜひ譲って欲しいと言い出す。だが最初、田中は断る。「高杉の気持は、よくわかる、が、相手が幾ら高杉でも、此の刀ばかりは手離すわけには行かぬ」と思う。それは田中が大和十津川に潜伏中、薩摩浪士梶原鉄之助から懇願して譲り受けた、大切な刀だったからである。ところが晋作は諦めようとしない。

「由来を聞いて、猶更欲しくなつた。梶原氏の心掛けと言ひ、貴君の心掛と言ひ、近頃感服仕つた。どうか御両所の心掛と併せて、此の刀を拙者にお譲り願ひたい」

 と、押して来る。とうとう田中も根負けし、晋作の門下に入れてもらうことを条件に、友安を譲った。

 田中によれば慶応二年、長崎で撮影された有名な晋作の写真に写っているのは、この友安だという。「安芸国友安」は永禄年間((一五五八~六九)の刀工とされる(長野桜岳『幕末志士愛刀物語』昭和四十六年)。

 写真で見る限り、晋作の友安は薩摩拵えの小さな鍔の武骨な雰囲気の刀のようである。では、この友安はその後どうなったのか。田中は「彼は死ぬ時迄、此の刀を手離さなかつたが、死後何処へどうなつたものか、刀の行衛はわからない」と語っている。

「友安」か「貞安」か

 「友安」は文献によっては「貞安」となっている。その原因を、田中光顕の回顧談から探ってみよう。

 田中の幕末回顧談には『維新夜語』より八年前、講談社から出した『維新風雲回顧録』(昭和三年)と題した別バージョンがある。内容はほとんど同じなのだが、『維新風雲回顧録』では刀の名称が「友安」ではなく、すべて「貞安」になっている。これは先に見た、岩崎鏡川の大正五年の一文と同じである。出版の順序からすると「貞安」が先だが、それは誤りだったので、『維新夜語』を出すさい、すべて「友安」に修正したと考えるのが、自然ではないか。

 私は刀剣については、まったくの門外漢である。しかし晋作ゆかりの「友安」「貞安」について知りたいとは思う。どのような刀工なのか、あるいは他にどんな刀を打っているのか。それらを知る手掛かりが、いまのところつかめない。

長い刀を好む

 晋作の身長は、一六〇センチほどだったという。刀の長さは身長に合わせるものだが、晋作の場合は不釣り合いな長い刀を好んだ。当時は実戦を想定して短い刀が好まれたというが、一方で武威を示すための長い刀も流行したようである。

 晋作は文久三年(一八六三)五月二十日、久保清太郎(断三)にあてた手紙に「二尺五寸極々上等分」を、代わりに買っておいて欲しいと依頼する。翌日、藩校明倫館で「新刀」の販売があると知った晋作だったが、自身は剃髪して萩郊外の松本村に籠もっていたため、久保に購入を依頼したものらしい。

 幕府により刀の「定寸」は二尺三寸(約七〇センチ)と決められていたから、それよりも七センチほど長い刀を晋作は探していた。ともかく晋作は刀を手に入れたようで、七月九日、下関から萩の妻マサにあての手紙中に「松下にて買得候刀は仕立て出来候や、出来次第御持たせ下さるべく候」と頼む。当時、晋作は奇兵隊を結成し、初代総督を務めていた。なお、三尺以上の帯刀は禁じられていたから、晋作は法の範囲内で突っ張っていたことになる。

 久保の息子久保幾次郎が、やはり『日本及日本人・六七七号』に寄稿した「東行先生は兵学者」で、「高杉未亡人の話によると、明倫館で買つた長剣は明治十年に未亡人が東京へ出て来られる時に、確かに菰包として持参されたさうであるが、其後何うなつたかいくら詮議しても見当らぬとの話であつた」と述べている。なお、幾次郎は高杉家には「今一本」刀があるとするが、これが先に述べた春太郎が戦地に持参したものだろう。

井上聞多の佩刀

 征長軍が迫る元治元年(一八六四)九月二十五日、井上聞多(馨)は山口で開かれた御前会議で「武備恭順」を説く。しかし同夜、帰宅途中に反対派の刺客に襲われ、瀕死の重傷を負った。そのさい、井上が帯びていたのは同年五月、杉孫七郎から護身用として贈られた太刀である。刺客の攻撃を受けた刀はその後、行方が分からなくなった。しかし明治三十一年になり、杉によって東京の高杉家から見い出される。

 その際、杉が書いた「伯爵井上君旧佩刀記」によれば、形状は「刀長二尺三寸二分、款鑑無し。美濃国関兼延作る所と為す。身反り張り無し」だった。そして遭難のさい、刺客の刀を受けた疵が生々しく残っていた。杉は「今歳六月、高杉東一家を訪れ、たまたま此の刀を見る。蓋し往時馬関に於いて東一の父晋作に贈る所」と述べる。

 杉によると、井上の一命を救った刀は馬関で晋作に贈られ、その後も高杉家に伝わった。肝胆相照らす仲だった井上と晋作の関係からすれば、不思議なことではない。『世外井上公伝』一巻(昭和八年)には、次のような解説がある。

「この一刀は公(井上)の遭難後、他人の手に移り、久しくその所在が知れなかつたが、明治三十一年、杉子爵が山口県巡遊の途次、高杉晋作の未亡人がその刀を保存して居るのを聞伝へ、之を未亡人に請ひ、携帰つて再び公に贈つたものである」

 『世外井上公伝』の著者は当時、高杉家が山口に居を構えていたと勘違いしているが、同家は明治十年ころ、東京に移っている。推測すると、杉は帰郷したさい、井上の刀に関する何らかの情報を得、東京に戻り、高杉家を訪ねて実物を確認したのではないか。

未見の脇差

 熊本在住の自衛官が昭和三十七年(一九六二)ころ、旧陸軍の将校から譲られ、「家宝」としている「晋作の脇差」が、平成元年(一九八九)の新聞に紹介されたことがある(切り抜きは持っているが、新聞名と月日はメモし忘れて不明)。

 記事によると脇差は「銘はなく、刃渡り五十五・二センチ」で、鞘には「奇兵隊高杉東行佩刀」「含雪所有 寺岡中山堂鑑」「伝 備前長船住人康光 長サ一尺八寸一分有」と書かれているという。広井雄一「古刀」(『文化財講座 日本の美術13』昭和五十二年)には、室町時代初期の備前長船の刀工として「康光」の名が挙がっている。

 旧蔵者という「含雪」は晋作の同志だった山県有朋の号だが、由来を書いたのは「寺岡中山堂」なる人物だ。山県本人の書き付けではない点など、やはり決め手には欠ける気がする。それでも夢のある話ではある。

 平成がスタートした年に新聞に紹介された脇差の行方を、私は知らない。一度拝見したいと願っていたが、その機会も無いまま平成は終わってしまった。

   (平成31年4月、未定稿。「晋作ノート」46号に掲載予定)



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