二十二通目の父あて晋作書簡と御前会議

二十二通目の父あて晋作書簡と御前会議

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 高杉晋作は忠孝心にあつく、藩主と両親には頭が上がらなかった。「孝子晋作」を裏付ける父小忠太あて書簡は堀哲三郎編『高杉晋作全集』(以下『全集』と略す)上巻(昭和四十九年)に十七通(両親あて含む)、私が編んだ『高杉晋作史料』(以下『史料』と略す)一巻(平成十四年)には少し増えて二十一通が収められている。

 高杉家蔵だった原翰の大半は『東行先生遺文』(大正五年。以下『遺文』と略す)で翻刻された後、流出したようなので、活字でしか知ることが出来ないのは残念である。

 父あて晋作書簡がこれ以上、現存する可能性は乏しいと思っていたら、このたび未発表の元治元年(一八六四)九月二十一日、父あて晋作(この頃は「和助」と称していた)書簡に出会った。二十二通目の父あてである。

 晋作生誕百八十年最初のニュースとしてお届け出来ることを、まずは喜びたい。

 晋作は八月前半、下関で四カ国連合艦隊との講和のために奔走した。しかしこの間、「禁門の変」で敗れた長州藩は「朝敵」の烙印を押され、九月になると藩政府ではいわゆる「正義派」が斥けられて、いわゆる「俗論派」が台頭するという政権交代が始まる。藩主父子は「藩政府」が置かれた山口におり、そのため萩は「留守政府」とも呼ばれた。

 それでも晋作は従来の政務役に加え、八月二十九日、石州境軍務管轄を兼ねるよう命じられ、九月二日夜、山口に入る(同日、杉梅太郎あて晋作書簡)。もっとも、石州口には赴任せず、九月十一日までには萩に帰ったようである。

 一方、父小忠太は晋作と入れ替わる格好で、山口の藩政府に勤めることになった。九月十日、手廻組に加えられ、奥番頭、直目附役を命じられる(毛利家文庫『高杉小忠太之履歴材料』)。小忠太に篤い信頼を寄せる、藩主父子の希望によるものだろう。

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 私は『史料』一巻の中から書簡百通を選び、解説などを加えて講談社学術文庫版『高杉晋作の手紙』(平成二十三年。以下『手紙』と略す)を編んだ。もっとも、いま見ると『手紙』の解説は発信者(晋作)や受信者の居所、月などの推定の誤りが何カ所かあり、赤面の至りである。たとえば『手紙』の「22」は、受信者の宍戸九郎兵衛の居所を「江戸」としたが、大坂か京が正しい。

 今回新出の晋作書簡を調べるうち、元治元年九月あたりの書簡の解説などに、重大な誤りがあることに気づいた。これを訂正しておかないと話が進まないので、少しお付き合いいただきたい。

 九月十一日(『史料』270・『手紙』44)、九月十五日(『史料』271・『手紙』45)は晋作が「山口」から「萩」の父にあてたと『手紙』で解説したが、いずれも逆で、「萩」から「山口」あてである(『全集』も同様に誤っているので、要注意)。

 また、「十八日」(『史料』272・『手紙』46)とある父あて書簡は、「九月」でも「十月」でもなく、下関で戦後処理を終えた直後の「八月」が正しいと思われる。

 以上、お詫びし、訂正させていただく。

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 ①九月十一日

 ②九月十五日

 ③九月二十四日(『史料』273)

 と、二週間ほどの間に萩の晋作は、立て続けに山口の小忠太に手紙を発した。ちなみに①②の原翰は『遺文』によると、晋作の孫高杉春太郎の所蔵とあるが、その後流出して現在は行方不明である。③の原翰は萩出身の日本画家松林桂月など何人かの手を経、現在は熱田神宮(名古屋市)が所蔵するが、早くに流出したようで、『遺文』『全集』には収められていない。

 ②と③の間に、今回出て来た九月二十一日付を加えると、二週間ほどの間に四通書いたことになる。これらの手紙で一体、晋作は父に何を伝えようとしたのか。

 ①の最初の方で、晋作は萩に急ぎ帰って来た理由を述べる。それは、父が山口に転役すると聞いたので、「当形勢予め申し上げたく」と言う。「俗論派」の影響が強まった藩政府にかんする予備知識を植え付けておこうと、考えたのである。ところが父はすでに萩を発ち山口に向かっており、行き違いになったと悔しがる。

 そこで晋作は、毛利登人とはぜひとも同勤するようにとか、藩主側近が色々と「密告」してくるだろうが、決して信用してはなりませぬなどと注意を促す。林主税・上山某などは「誠忠」だが、「時勢には不案内」だから、交流しても心を許してはいけないとも言う。

 さらに、「正義派」の幹部で失脚中の前田孫右衛門・渡辺内蔵太・大和国之助・毛利登人を藩政府の一線に戻すよう「周旋」して欲しいと頼む。しかし、「麻田公輔(周布政之助)老狂、清水大夫(清太郎)も少年、中々引き当てには相ならず」とも評す。萩のこととして、「杉徳輔(孫七郎)留守政府第一等人。山田宇右衛門好人物、其の上時勢も熟察つかまつり居り候」と述べる。この時期、晋作があつい信頼を寄せていたのは、山田だった。

 つづく②で晋作は、藩政府や執政に人物が無いと嘆き、その中に立たされる父の「御苦心の程及ばず乍ら想像」していると言う。また、自身の処遇につき、石州境軍務管轄は辞職願いを出しているとし、「錬兵場舎長」くらいに転任させてもらえると「生外の大幸」とする。間もなく「俗論派」による粛清が激しくなるのだが、この頃の晋作はやや呑気に構えていた。

 晋作がたびたび話に行くという山田については、次のように高く評しており、山口に呼び寄せるよう勧める。

「宇右衛門は当時勢い(時勢)も余程熟覧熟味、老錬中の真の老錬、御役に相立ち候好人物につき、何卒早々鴻城(山口)へ御召しに相成り候ては如何哉と愚察奉り候」

 末尾近くには「田上伯父御出山に付、一筆拝呈つかまつり候。ここ許時情は委曲伯父より御聞き取りなさるべく候」とあり、萩から山口に行く叔父の田上宇平太に託された手紙であることが分かる。

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 そして今回見つかった、九月二十一日付へと続く。「田上伯父昨夜御帰萩、今朝罷り越し御地の御様子承知奉り、大安心つかまつりおり候」で始まるのは、前便②と繋がる。田上から聞いた山口の情報に対する晋作の意見を父に知らせるのが、手紙の主旨である。

 晋作は父の「御盛々御所勤」を喜び、萩の母はじめ家族は全員無事だが、「二、三日前より大西外祖父(将曹)少々風邪」を引いているとの近況を知らせる。それから山口の藩政府が「今以って御沸騰の余波静まり兼ね候の由、嘸々御苦労」されていると気遣う。また、山田宇右衛門が山口に「出浮」するので、「御相談」するよう繰り返す。さらに自身は萩に「割拠」するつもりだと言う。

 「宇右衛門」の名は三回も出て来る。「宇右衛門之持論は、杉梅(杉梅太郎・民治)委細承知にて彼に御尋ね下さるべく候」と、勧める。

 杉梅太郎は八月十七日、諸郡御仕組方を任ぜられ、郡奉行所本取締役を兼ね山口に勤務していた。上司の郡奉行は、山田である。だが、山田は藩政府の仕事に忙殺され、郡方は杉へ委任された(中村助四郎『学圃杉先生伝』昭和十年)。つづいて中原邦平『井上伯伝』巻之三(明治四十年)によれば、山田ほか主な「正義派」政府員は九月十四日、辞表を出す。これを藩主は認めなかったが、山田は萩に帰り、晋作と話し合うようになった。

 山田宇右衛門は文化十年(一八一三)生まれで、文久二年(一八六二)二月に参政となり、同年八月、学習院用掛として上京した。帰国後は再び参政となり、翌三年には奥阿武郡代官などを務めたりする(『近世防長人名辞典』昭和五十一年)。『防長回天史』六巻によると、元治元年八月十三日、講和副使として晋作と共に四カ国連合艦隊との談判に出席した。これらの経歴を見ても、能吏だったことは窺える。

 「宇右衛門之持論」を、この頃の晋作が支持していたのは確かである。ただ、それが何だったのか、よく分からない。もちろん、晋作と同じ「武備恭順」路線だろうが、山田が意見書を出したとか、会議で発言したといった記録が見出せない。

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 萩に帰っていた山田宇右衛門を、藩政府が山口に呼び出したのは、九月二十五日に開かれる御前会議に出席させるためだろう。小郡宰判代官と政務座を兼ねる井上聞多(馨)が「純一恭順を非とし、武備恭順の説を主張」(『防長回天史』六巻)したことで、後世有名になる会議である。これにより藩主父子も「武備恭順」に傾いたという。井上は非常の場合は第四大隊と力士隊に、「俗論派」を襲撃させる準備を進めていた。このため同夜、帰宅途中の井上は「俗論派」の刺客に襲撃され、瀕死の重傷を負う。

 井上は後年「山田宇右衛門は謹慎を言ひ付けられて居なかつたらう。極く穏かな人であったから、さう云ふ人に皆な御許しがあるから出よと云ふて」(同前)会議に出席させたと回顧する。

 井上の回顧談をもとにしたという『井上伯伝』巻之三には、講談調で会議が「再現」されている。午前十時から始まり、まず「俗論派」が擁する加判役の毛利伊勢が「正義派」の失政を非難し、「幕府に対して只管恭順謹慎の誠意を尽し、哀訴嘆願の道に由りて、毛利家の社禝を存するの外勿るべし」などと、弱腰の主張をする。対する井上は「御家老の面々が頻りに畏縮の俗論を主張せらるゝは如何なる御所存なるや…毛利家の臣子たる者は上下一致、武士道に拠り、斃れて已むの時機に到達せり」などと、勇ましく反論するといった展開である。まさに、井上の独壇場である。もっとも、顕彰目的の伝記の記述をどこまで信じてよいものか、疑問は残る。

 それに、晋作が期待した「宇右衛門之持論」は、会議で披瀝されたのか。小忠太は出席していたのか。井上は何も語っていない。

 長州藩の進路を決める有名な会議にも関わらず、管見の範囲では「議事録」「出席者名簿」のような確かな史料が残っていない。『井上伯伝』巻之三には、出席者につき「一門家老を始め政府の諸役尽く政事堂に参集す」とあるだけだ。「俗論派」が絡むや、史料が極力少なくなる。これが、長州藩「明治維新史」の問題点であろう。

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 この続きが③九月二十四日、父あて晋作書簡である。晋作は萩で「碌々読書にて罷り暮らし」ていると近況を知らせる。だが、萩から山口に行く者が多いとし、「御地(山口)之事は色々虚説流行、人心恐乱、長歎息之至りにござ候」と憂慮するも、山口に行った山田のことは触れていない。前便にあった大西外祖父の風邪につき「次第に熱気も強まり候方にて、甚だ以て難義致され候。食事参り兼ね候間、何卒御心配にて、御上心労を御送り下され候と之事と存じ候。宜敷く御頼みつかまつり候」と願う。

 二十五日、御前会議があり、夜に井上が襲われ、二十六日暁には周布が山口・矢原で自決する。「俗論派」が藩政を席巻し、藩主は十月三日、世子は翌四日、山口を発ち、それぞれ萩に帰った。十月十六日には晋作の、同月二十一日には小忠太の辞職願いが藩政府に受理され、父子ともに萩の自宅で過ごすことになる。晋作は再び、父の育という立場になった。

 二十四日に「禁門の変」の責を問われた宍戸左馬之介らが野山獄に投ぜられるや、晋作は同夜萩を脱し、山口、徳地、下関などを経て、九州に亡命する。藩政府の主導権を奪うため帰国し、下関で挙兵したのは十二月十五日のこと。藩内戦のすえ「俗論派」は藩政から斥けられ、藩是は「武備恭順」となり、慶応二年(一八六六)六月には第二次長州征討の戦いの火ぶたが切って落とされる。この間、山田は投獄もされることなく生き延び、政権交代後は藩政府の参政首座として藩政改革を進めた。

 晋作は征長軍撃退の指揮を執り、慶応三年四月十三日、二十九歳で病没。山田は王政復古のひと月前、慶応三年十一月十一日に五十五歳で他界している。

   (「晋作ノート」45号、平成31年3月)



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