晋作・望東と伊藤博文

晋作・望東と伊藤博文

 いま、執筆中の高杉晋作の詳細な評伝には、新出史料も多数使っている。ただし、その大半は紙幅の関係や繁雑になるのを避けるため、全文を掲げていない。よって今後は引用部分以外は埋もれてしまう可能性もある。そこで今回はそうした中から何点かを紹介し、私見を述べておきたい。

望東の歌の詞書き

 まずは野村望東が晋作没後間もない頃、詠んだ和歌である。歌そのものというより、添えられた長い詞書きに晋作に対する深い思いを見る。原本は晋作自筆詩書扇面と合装されて一幅の軸に仕立てられており、私の蔵書中にある。

「谷春風のうしのしめのひにし東行庵にしはらくやとりけるこゝろさま(おどり)の題をものしける中のうたに椿をよめる、きられてもつまれても猶さりけなくしけりて花のさくつはき哉、と物したりしをかのうしのくりかへし(おどり)うちすてして、この御国もかくなくてはとしみ(おどり)と思ひ入たるけしきにこゝろのふかさもおしはかられて、たはひなくみまなせしにいかなるあめのめくりにやありけむうのとしの卯月十四日のあかつきのつゆとゝもに、三十に一とせこなたとりもちにしてはかなくきて□□□しこそうれしともうれしく世の人こそりてをしみあへりさへかなしかりけれされはかのわか色なきつはきのうしを見るたひに  おもかけのみはたみにとゝまりてわすれかたきにつけてもたまはこのよにあまかけりてやとさへおもひかへして

 国をおもふますらたけをの玉椿

   やちよも花のかさりまもらむ

              望東」

 福岡藩の弾圧に連座した望東は玄界灘姫島に流されたが、慶応二年(一八六六)九月十六日、晋作(谷春風)の意を受けた浪士ら数名により救出され、長州下関に迎えられた。十月下旬、結核が悪化して療養中の晋作は、下関郊外桜山に建てた小さな家に愛人うのと共に移り、ここを「東行庵」と居号する。そして望東もまた、晋作と同居することになった(この小屋はもともと望東のために建てられたとの説もある)。

 そうした暮らしの中で望東が詠んだ中に、椿を題材とした一首があった。望東は椿を不屈の精神を持って戦った晋作の生きざまに重ねている。晋作の享年は数えの二十九だが、望東は三十一と誤記している。いずれにせよ、晋作と望東の交流を示す史料である。

伊藤博文の書

 萩博物館で平成十八年(二〇〇六)、企画展「晋作と龍馬」を開催した時のこと。担当した警備会社の若い警備員が実家にあるという軸を持参し、見せてくれた。それは伊藤博文書の石版印刷を軸装したものだったが、晋作に関する内容であることが興味深かった。印刷だから他にも存在すると思い注意していたら、間もなくある古書肆で私も入手することが出来た。しかし以後は一度も見かけないから、やはり珍しい物ではあるらしい。

「(印)

維新前、筑前有女上武称野村望東夙抱勤王志、兼能和歌、曾聞与西郷南洲及高杉東行有旧交、両士者薩長両藩傑出之人物也、両志士為王事東奔西走毎過筑前、宿其家倶談国事、又曾訪我東行于馬関寓居、東行一日早起立軒端、偶然詠和調上句、望東在傍衝口而継之、余一日会与雲梯林田于函山環翠楼談、及維新前事余話東行望東之為人竟及其偶吟之事蹟、雲梯乞余書之、時明治乙巳四月十二日夜也

面しろき事もなき世をおもしろく 東行

住なすものはこゝろなりけり 望東

       侯爵伊藤博文誌

         (印)(印)」

 有名過ぎる晋作と望東の合作和歌だが、その由来を伊藤が書いている。ただし私は最近、この合作和歌なるものはフィクションの可能性が高いと考えている。小河扶希子『野村望東尼』(平成二十年)での、安政四年(一八五七)に望東が詠んだ「おもしろき事もなき世と思ひしは花見ぬまの心なりけり」を晋作が唱和したのが、「高杉が作成した詠歌」になったとの推察も、捨て難いとは思う。

 明治二十年(一八八七)出版の『東行遺稿』には、この歌は出て来ない。しかし同二十五年出版の、増訂版ともいうべき『高杉東行詩文集』には出て来る。常識的に考えれば、五年の間にこの歌は「発見」されたことになる。だが、何の注意書きも無い。第一この歌の自筆本というのは見たことが無く、存在するとの話も聞かない。

 いまから三十六年前、晋作曾孫高杉勝氏に初めてお会いした際、私は真っ先にこの歌の自筆が高杉家に伝わっていないかと尋ねたが、「ありません」と即答された。その後、高杉家に伝わった『東行遺稿』(現在は萩博物館蔵)と題された古そうな他筆写本に「丙寅(慶応二年・一八六六)」の作として出ているのを見つけたが、これとて「面白」を「面句」と誤るなど、お世辞にも上質な写本とは言えない。また、何を元にしたのか、いつ成立したのか等一切分からない。

 さて、この伊藤書である。筆跡は伊藤自筆と見て、間違いないだろう。その内容は、あらまし次のとおりである。

 馬関の寓居で早起きした晋作は軒端に立ち、「面白き」云々と上の句を口づさんだ。すると傍らにいた望東の口から、下の句が衝いて出た。その光景を偶然訪ねた伊藤が、目にしたという。

 明治三十八年四月十二日、箱根の環翠楼で伊藤は側近の官僚林田亀太郎(雲梯)に、以上のような「維新前事余話」を聞かせた。林田はその話を書いてくれるよう頼み、伊藤は応じた。おそらく感激した林田は石版印刷で伊藤の筆跡そのままの複製を何枚か作り、配ったのだろう。

 ちなみに伊藤は慶応二年十月後半から約三カ月、下関で病の床に臥せっていたそうだから、その間に晋作の寓居を訪ねることもあったと思われる。

伊藤博文が創る晋作伝説

 伊藤博文の言を信じるならば、合作和歌は口吟だから、自筆が無いのは一応理解出来る。だが、この歌が伊藤の記憶によって伝えられ、それが『高杉東行詩文集』に収められたとするのは、どう考えても不自然だ。出版された明治二十五年当時、伊藤はすでにビッグネームだった(明治十八年に初代総理など)。その伊藤が蘇らせた歌とすれば信憑性が高まり、箔も付いただろうから、出版時になんらかの注記がなされたはずである。

 つづいて合作和歌は翌二十六年、晋作伝記の最古の単行本とされる江島茂逸『高杉晋作伝入筑始末』にも、紹介された。以後典拠不詳のままあらゆる書籍に掲載され、人口に膾炙してゆく。

 結論から言うと、伊藤は初出から十年以上経て、すでに有名になっていたこの歌に、まるで自分が関与していたかのようにして、部下に自慢したのではないか。それは、良く言えば伊藤のおおらかな性格からである。

 伊藤は時に、みずからを道化にして場を盛り上げるような、サービス精神旺盛な男だ。旺盛すぎて話が何倍にも膨れ上がり、色気違いのようにも言われるが、彼の膨大な仕事量を見ると、とても事実とは考え難い。長州の方言で言う「じゃげな話」が好きだったようで、私はあまり悪意を感じない。

彦島租借要求

 そこで思い出されるのが元治元年(一八六四)八月、下関(馬関)に襲来した四国連合艦隊との戦後講話談判の席における逸話である。列強が出した下関沖の彦島を租借させよとの要求を、晋作・伊藤が突っぱねたというのだ。

 この話も後年伊藤が語ったとされるが、当時の史料には彦島租借などは出て来ない。第一、西洋列強が領土的野心を抱いて下関を砲撃したとなると、戦争の意味が変わってしまう。列強は日本を植民地化するつもりだと、当時の伊藤たちは信じていたから、そのあたりから生まれたフィクションではないかと私は考える。

 この逸話の根拠となっているのは、側近の古谷久綱が伊藤没後に著した『藤公余影』(明治四十三年)中の「彦島と香港」という一節である。それによると明治四十二年七月四日夕、伊藤は下関から軍艦満洲丸に乗り、韓国を目指した。その際、甲板上から彦島を見た伊藤は、古谷ら従う者たちに彦島租借につき話し始めたという。

 伊藤は「自分等は極力之に反対して、終に条件中より之を削除せしめたるものなり」「此彦島は恰も今日の香港と均しく、馬関は九竜と異なるなきに至りしやも未だ測り知るを得ず。想て茲に至れば実に寒心に堪へざるものなくんばあらず」などと、自分たちの功績がいかに偉大だったのかを強調した。

 だが、伊藤の回顧談は語った場所や目的などにより大きな違いがあることも、留意すべきだ。たとえば幕末期のことにつき、『防長回天史』編纂中の公爵毛利家編輯所長末松謙澄からさまざまな質問をされた伊藤は、懇切丁寧に回答している。記憶違いや間違いはあるにせよ、自分の談話が歴史編纂の「史料」になるのを承知した上で、正確に語ろうとしている。これは井上馨の談話と共に『伊藤・井上二元老直話 維新風雲録』として、明治三十三年に出版された(平成六年、マツノ書店復刻版あり)。

 その中には、合作和歌や彦島租借の逸話は無い。歴史に残る場合は語っていないところを見ると、逸話の信憑性はおのずとあきらかな気がする。伊藤は「史実」と「じゃげな話」との使い分けを、心得ていたのだろう。

 にもかかわらず、小松緑により編まれた『伊藤公全集』三巻(昭和二年)は諸書から集めた談話を、いちいち検証しないまま一括して「直話」として並べてしまった。うち「彦島懐旧」は古谷が書いた文章を、伊藤の談話そのままのようにアレンジし、他の談話と同列に扱う。「直話」部分は再編集の上、『伊藤公直話』(昭和十一年)として出版されて、さらに普及してゆく。

 サービス精神旺盛な伊藤は古谷におもしろおかしく彦島租借を語り、自分たちが植民地化を阻止したと自慢したかったのかも知れない。伊藤というネームバリューの大きさが、談話のすべてを「史実」にしてしまったのだ。現代でも晋作を「彦島の恩人」として神格化し、子供たちに拝ませようとする教員や文化人がいるそうだから、カルトのようでうす気味悪い。そのうち募金でもして、またしても記念碑でも建てたら笑ってやろう。

 自分の思い出に過剰なまでの尾鰭や背鰭を付けて自慢するようなオヤジどもを、私だっていやと言うほど見て来た。少しでも社会経験があれば分かると思うが、そうした下らない見栄や自慢が渦巻いているのが、社会なのである。

 (『晋作ノート』65号・2025年9月)



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