高杉晋作の平尾山荘潜伏

 「歴史」のある一コマが「名場面」として切り取られ、一定のイメージをもって語り継がれるケースは、枚挙に暇が無い。ところが、その根拠を探ってゆくと、後世の創作ではないかと疑いたくなるケースも、また少なくない。

 高杉晋作伝記の「名場面」のひとつに、元治元年(一八六四)十一月の九州(筑前)亡命、平尾山荘潜伏がある。だが、当「名場面」は、どこまで「実像」を伝えているのだろうか。本稿ではこの部分をあらためて検証し、「名場面」と化していった背景なども考えてゆきたい。

『近世紀聞』の挿絵

 高杉晋作は慶応三年(一八六七)四月十三日、二十九歳で病没した。明治初年、その伝記は私が知る限りでは京都の文求堂から出た『志士小伝』(明治三年)などに略歴が掲載されている位で、九州亡命につき特に見るべきものは無い。九州亡命を「名場面」とした最初は、染崎廷房・條野傅平共著『近世紀聞』ではないか。同書は嘉永六年(一八五三)のペリー浦賀来航から明治十年(一八七七)の西南戦争に至る、「明治維新」の通史を平易に叙述した挿絵入りの政治小説である。明治八年から十四年にかけて全十二編(各編三冊)の和本で出版され、広く読まれた(明治十九年の洋装合本縮刷版などもあり)。著者染崎は島原、條野は江戸出身のジャーナリストだ。この第七編巻一(明治八年)に晋作の九州亡命、平尾山荘潜伏が次のように描かれている。

彼の俗論党の輩が三国老を幽するの時、高杉をも倶に捕へて禁獄なさんと図りしを、高杉僅かに身を脱れて筑前の国に走り、野村望東の許に到り、姑く危難を避ん事を請ふに、此望東と喚るゝは福岡の藩士たる野村貞貫の妻にして初めの名を阿元と言ひしが、夫貞貫没して後薙髪して尼となり、名を望東と称しつゝ(中略)頗る女侠なるをもて高杉とも相識る中ゆゑ、更に一議に及ぶべくもあらず。竊に其身を別室に匿ひ、百方これを回護せし故、稍危きを免かるゝに至れり。

 晋作は下関を脱し、元治元年十一月四日、海路博多に逃れ、福岡藩の同志と会談後、肥前田代へ赴き、佐賀藩に決起を働きかけるが失敗した。それから博多に戻り、十一日か十二日ころ平尾山荘に潜んで、二十一日まで過ごす。

 望東は四十二歳の時、夫の福岡藩士野村貞貫が致仕したので城南の平尾山荘に転居した。安政六年(一八五九)、五十四歳の時、夫が亡くなり、受戒剃髪する。歌人であり、勤王の志があつく、平野国臣や中村円太ら福岡の政治運動家たちとも交流した。慶応三年十一月六日、周防三田尻で没、享年六十二。明治二十四年に靖国合祀され、正五位を追贈されている。

 『近世紀聞』は、九州に逃れた晋作が真っ先に平尾山荘を訪ねたように描く。また、晋作と望東が旧知の間柄だったような記述もある。ただし、いずれも史実とは認め難い。それでも『近世紀聞』はこの逸話を見せ場にしており、関連の挿絵を口絵と本編中に二点も載せる(図版①②)。②の晋作は落人ふうだ。望東は黒髪を下ろしてはいるものの、妖艶な雰囲気すら漂う。

『教導立志基』のひとつとして

 明治になり出版された、晋作を題材とした錦絵を私は三種確認している。最も知られるのは、教訓絵の『教導立志基』シリーズ(明治十六年~二十三年刊。全五十種)の一枚、晋作が望東を訪ねる場面を描く大判錦絵だろう(図版③)。同シリーズは数人の浮世絵師により描かれたが、「晋作」の作者は月岡芳年門下の水野年方である。出版は「御届 明治廿三年十一月 日」「画兼出版人 両国吉川町二番地 松本平吉版」(刊記無しの版もある)、解説には「氏僅に脱して筑前に走り、同志者野村望東女が家に匿る」云々とある。

 絵柄は『近世紀聞』挿絵(図版②)がモデルなのは明らかで、晋作は落人ふうである。現代人が晋作に抱きがちな、若く颯爽とした印象とはほど遠い。それに現代なら晋作伝記の「名場面」と言えば九州亡命ではなく、下関での挙兵や小倉口の戦いなどが選ばれそうだ。事実、平成元年(一九八九)十二月、日本テレビ系で放映された大型時代劇「奇兵隊」では九州亡命のシーンは無く、ナレーションで片付けられていた。

 だが、「教導立志」がテーマの当錦絵は、逆境に立ちながらも機をうかがい、ついには逆転するといった「教訓」を、九州亡命により説こうとする。絵の主題をより鮮明にさせるなら、逆境の晋作は疲れ切っていた方がよい。

 明治前半の日本は、西洋からの理不尽な要求に屈することが多かったせいもあり、堪え忍ぶことを美徳とする空気が特に強かった。明治二十八年、日清戦争後の「三国干渉」に対する「臥薪嘗胆」は、その最たる例だろう。晋作の錦絵にも、そうした世相が反映されているのかも知れない。なお、同じ頃、三条実美ら七卿が文久三年(一八六三)八月の政変で都落ちする場面が「明治維新」を象徴するかのごとく多数描かれた。三条は王政復古後、太政大臣となるから、まさに大逆転劇である。だが、七卿落ちも現代では忘れ去られた観があるから、感動、共感のポイントは百何十年前と現代とではかなり違うようである。

『高杉晋作伝入筑始末』と江島茂逸

 『近世紀聞』『教導立志基』は言わば東京発の情報で、晋作の九州亡命を題材とすることに政治的意図があったとは考え難い。ところが、「名場面」になった九州亡命に、福岡人が政治的意図を携えて乗って来る。それは、幕末から明治初年にかけての福岡藩の歴史と深く係わる。

 幕末の筑前福岡藩主黒田長●は第一次長州征討を不戦解兵で終わらせるため、家臣に長州藩の激派を説得させるなどして尽力したが、そのため幕府の嫌疑を受けた。長●は慶応元年十月、みずからの意に反して長州藩に接近する家臣たちに対し、大弾圧を行う。いわゆる「乙丑の獄」で、切腹七名、斬首十四名、その他多数が処罰された。まもなく王政復古が実現したが、人材を自らの手で葬った福岡藩は、中央に要人を送り込めなかった。それどころか新政府は明治四年、廃藩置県直前、贋札事件を理由に知藩事黒田長知を罷免するなどして福岡藩を解体する。福岡にとり「明治維新」は痛恨の歴史となった。「乙丑の獄」さえ起こさなければ、福岡は薩摩・長州と肩を並べ、新政府の一翼を担ったとの思いは、その後の福岡に根深く残る。

 だから福岡人は、福岡藩中心の「維新史」を構築し、自分たちの功績を懸命になりアピールした。中でも黒田長●や野村望東・中村円太の伝記など多くの福岡幕末史を著したのが、「福岡県士族」の江島茂逸である。江島は明治二十六年、『高杉晋作伝入筑始末』(A5判、百四十ページ。以下『入筑始末』と略称す)を東京の団々社書店・陽涛館から上梓した。

 『入筑始末』は単行本の晋作伝記としては、最古の部類に属する。ただし、江島の目的は、単に晋作の事績を伝えるというものではない。九州亡命、つづく長州藩の内訌と政権交代、薩摩藩との提携などに福岡人がどれ程貢献したかを、世に訴えることだった。クライマックスのひとつは平尾山荘潜伏で、ここで晋作は望東や福岡藩士月形洗蔵・鷹取養巴らの仲介で薩摩藩士西郷隆盛と会い、酒を酌み交わし、談じたことになっている。以下同書より引用する。

月形・鷹取は之を機として数々西郷に面会し、遂に同氏を誘ふて高杉が平尾の山荘に案内したり。高杉は始め薩人に面会することを強て否みしも、後にハ心解けて西郷と会合したり(中略)西郷・高杉及び其他の人々は共に環坐談笑に時を移せしも、イザ近野に逍遥して野興の趣味を試みんとて一同望東尼の山荘を出で、獲ものゝ松茸を下物として林間に酒を温め、閑歩閑吟の間に時事をも交へて談じつゝ、互に心を郊外の清遊に養ひたり。

 結論から言えば、山荘での晋作・西郷会見はフィクションである。まず、会見を裏付ける当時の史料が無い。また、晋作が山荘潜伏の頃、西郷は広島や岩国で奔走中だったことが現在では史料から判明しており、会見は物理的に成立し難いようだ。それでも『入筑始末』は、会見場面を次のようにしめくくる。

此日は各々詩歌の秀詠などもありし由なれども、今散佚して伝わらず。誠に惜むべき哉。其後、高杉は痛く西郷に密会したることを秘し呉れよとのことを申せしに、此会合の秘密は勿論、我々が先生に会することも世に知られては一大事なり、併し今日の秘密は他日公然の種子なるべしとて鷹取は高杉に答へたりとぞ。

 先回りするかのように、史料が無いと釈明しているところと見ると、江島も一抹の疚しさは感じていたのではないか。ここに登場する人物は、明治二十六年時点で全員没しているから、証人もいない。ではなぜ、会見を創作したのか。最終項「薩長和解の概略」には文久三年(一八六三)冬から「薩長和解の論」を唱えていた福岡の月形や早川勇が晋作・西郷を会見させ、薩長提携に至った旨が述べられている。薩長人が明治政府で権勢を誇ることが出来るのは、実は冷遇されている福岡人のお陰だと主張したいのだろう。それは必ずしも、間違いではない。しかし、「名場面」になっていた晋作の九州亡命に西郷との会見を加えたのは、政治的意図による「歴史」の「捏造」である。

 晋作・西郷会見は、早くから物議を醸し出した。たとえば三宅竜子『もとのしづく 贈正五位野村望東伝』(明治四十四年)は、晋作の九州亡命の部分を『入筑始末』を下敷き(ほぼ丸写し)にしながらも、次のように注記する。

西郷・高杉の会合いづれも無根のよしいふ人多かれど、今も存生せる人にてこの事をまことのよしいふもあり。とにかくかきつたへたる其まゝを、こゝにしばしはかきおくにそ。(六八頁)

 三宅竜子が明治四十四年時点で「存生せる人」に気遣い、会見を肯定的に書いたことは明かである。それでもなお、引っ掛かるものがあったから注記を加えたのだ。その、「存生」していた関係者とは、誰だろうか。

吉村清子と晋作

 『入筑始末』の凡例には早川勇・林元武・帯谷治平・吉村清子ら当時の関係者から取材した旨が述べられている。唯一の女性である吉村清子は同書によると「皇学者吉村茂右衛門千秋の女なり。此時年僅に十四」で、山荘潜伏中の晋作に「食膳を進めしめ」たという。ある時、晋作から「阿嬢も亦大和心を持てるや」と問われるや、「我もまた同し御国に生れ来て大和心のあらさらめやは」と詠んだ。晋作は「扨も感すべき阿嬢なるかな。これも亦望東尼の薫陶に依るべし」と、大いに称賛したともいう。後年、清子は山路重種に嫁いだが、重種は明治三十年十月に病死した。

 清子存命中、甲斐信夫『山路スガ子』(大正四年)が出版されている。巻頭に「おばあさまのおものがたりを、おばあさまによんでいたゞきます 孫 千鶴子」とあり、発行者は東京市赤阪区の「吉村千鶴」になっている。孫が清子の生涯を「甲斐信夫」に書かせ、出版したものだ。ただし、九州亡命に関して言えば、新しい史料などはまったくない。二十余年前の『入筑始末』にあった、清子が晋作に歌を示す逸話はもちろん出て来る。さらに『入筑始末』よりも、晋作との交流の濃度がかなり増す。たとえば、山荘での晋作と福岡の同志との会談に清子も加わっており、次のようなやり取りが展開する。

高杉 清子殿、御許の考へは…

清子は驚ひた列坐の諸士も案外の顔色。

清子 女性(ルビ・おなご)の妾には分り兼ねます。

高杉 左様でない。只御存寄を聞きたい。先づ一坐中最年少の御許から年齢順じや。ハッハ…

軽くうち笑ふ。

興に乗じての戯れ七分と見た清子、遠慮なしに答へた。

 といった具合に、芝居の台本ふうに話が進む。『山路スガ子』は「物語」だが、「関係者」存命中にある意図のもとに書かれたようだから、もう少し見ておく。本編には山荘での晋作・西郷会見は無いが、補遺の中には登場する(一二一頁以下)。清子の尽力で明治四十一年、失われていた山荘の建物が復元された。その傍らに建てられた、山荘の由来を刻む碑を紹介した部分である。七卿のひとりで、当時は「正二位勲一等伯爵」の東久世通禧が執筆したという碑文中に、次の一節がある。

元治中、長藩高杉春風亦来潜伏於山荘、論天下之事、蹶然起定其藩訌、而筑之志士、又謀薩長両藩之調和、先延西郷隆盛於山荘以発其端、顧春風不起、則長防之事不可観焉、薩長不和、則天下之事不可測焉、而見其機顕其微者、毎在於山荘、可謂奇●(ム矢)

 つづいて枢密顧問官で子爵の金子堅太郎が、同碑除幕式に寄せた式辞を紹介するが、その中に、

高杉晋作、西郷隆盛ト一夕相会し、以テ薩長二藩ノ連合ヲ●フシ王政復古ノ大業ヲ啓キシ処モ亦此山荘ナリシト云フ。而シテ野村望東尼実ニ此山荘ノ主人タリ

 とある。清子は、金子を通じて碑文の拓本を皇后のもとに届け、碑文に「箔づけ」してゆく。それは当時高まっていた、会見を疑問視する声に対抗する意図もあったのかも知れない。しかし、史料を示し議論するのではなく、権威、権力を頼り、優位に立とうとしたようにも見える。

 大正二年春に上京した清子は内田山(現在の東京都港区六本木)の侯爵井上馨邸で晋作の未亡人政子(マサ)と会い、「先年は宿か色々御世話になつて」との言葉をかけられたという。感慨のあまり清子は「夢にだに二度むすぶよしもがな とふ事かたき庭のやり水」と詠じた。政子は晋作の書簡断簡を、清子の求めに応じて贈っている(『久坂玄瑞史料』〈平成三十年〉七七八頁以下)。しかし政子が、生前の晋作から清子のことを聞いていたとは考え難い。

 山荘に出入りしていた清子が、晋作の世話をしたとの話の大半も後年、清子自身が語ったもので、鵜呑みに出来ぬというのが正直なところである。大正元年七月十五日、七十一歳で没した江島が進めた、福岡藩中心の「維新史」づくりの継承者が清子だったと、私は見る。目的のためには虚実はともかく、長州の英雄「高杉晋作」の名は必要だったのだ。

『筑紫史談』の中の批判

 歪んだ郷土愛(あえて、呼ばせてもらう)による歴史修正、捏造、牽強付会は現代に至るまで全国各地で後を絶たない。多くは滑稽なほど視野が狭隘で、理屈よりも感情を優先するから攻撃的になり易い。だが、望東顕彰の場合は非難の声が、福岡からも起こったことに注目したい。

 筑紫史談会の機関誌『筑紫史談』は大正三年四月から昭和二十年六月まで全九〇集が発行されたが、望東顕彰を問題視する記事がいくつか掲載されている。それは、①中島利一郎「高杉晋作と筑前」(九集・大正五年)、②同「高杉、西郷は会見せずといふ説の補遺」(一〇集・同前)、③大熊浅次郎「贈正五位野村望東 平尾山荘碑文誤謬の考證」(七一集・昭和十二年)などである。

 ①は長州を脱し、九州で奔走して帰国するまでの晋作の足どりを、史料を細かく挙げながら追ってゆく。特に山荘での西郷との会見は「可成り人口に膾炙して、殊に筑前では、全くの事実として信じられてゐる。けれども歴史事実として、果たしてそれが信であつたか、どうかに就ては、なお一考を要するのである」として、最も多くの紙数を費やして検証する。

 まず、会見を裏付ける当時の史料が無いとした上で、「西郷・高杉会見説を学界に始めて提供したのは、故江島逸翁であつた」とし、『入筑始末』から引用する。ところが江島も明治二十七年八月、ある人から質問を受けて「平尾山で西郷が会うたは、一向に分りません。けれども、逢うたには相違ない。高杉は二十日許り逗留して居りましたから」と返答しているのを『史談会速記録』四十三号から引用して、「江島翁と雖も、両者の会見について、自ら確信をもつてゐなかつた事がわかる」とし、「事実に於て西郷・高杉は筑前で密会すべき機会を有しなかつたのである」と、結論づける。つづく②では福岡藩士喜多岡勇平の日記や西郷書簡を検証し、主に西郷の動きから会見を否定する。

 ③の著者大熊は地元の郷土史の大家で、生前の江島とも交流があり、また建碑の事情にも通じていたので、関係者による一種の暴露譚の趣がある。晋作・西郷会見を否定するのは中島利一郎と同じだが、「碑文誤謬の論議は、従来単に西郷・高杉会見説の真偽のみに存せしが、一方月照駐錫説の誤謬に至りては、近年に至るまで世人の注意を惹かず」と、別の部分も問題視する。これは碑文にある「安政の大獄」で京を脱出した月照が薩摩へ赴く途中、山荘に匿われた旨が、創作だとの指摘である。

 また、碑の建設事業は明治二十年代半ば、江島主唱で始まったが、なかなか進捗せず、ようやく明治四十一年、清子により実現したとも言う。複数の問題を含む碑文はこの間に出来たものだが、その著者は実は表面に出た東久世通禧ではなく、「原案」は江島、「翻案し撰作」は福岡日々新聞の初代主筆宮城坎によるとも明かす。そして「固より史実の誤謬に至りては、伯(東久世)の存知せざる所」だったことも、述べる。

春山育次郎の指摘

 大熊浅次郎と親交があり、③にも登場する福岡の郷土史家春山育次郎もまた、江島や清子による望東顕彰を批判した。春山は著作『野村望東尼伝』(昭和五十一年)で、晋作の山荘潜伏につき次のように述べる。

 高杉が平尾の山荘に寄托したる時の事実は、従来幾多の伝説あり。刊行せられたる史書伝記の類多く之を記すけれども、概ね牽強付会の談より成り。実際は望東尼は暫く帰つて本宅にあり。独身者の瀬口留守を預りて監守し、他の耳目を避けるに都合好かりしが為め、高杉は寄托して足を留めたるのみ。元来六畳一間の表座敷に三畳二畳の二間あり、都合三間の狭ば苦しき草庵にして、女中小者の如き人を容るゝ余地ある住居とは異なる。(一八七頁以下)

 春山の経歴については、大熊が『筑紫史談』四九集(昭和五年)に寄せた追悼文に詳しい。それによると春山は慶応二年(一八六六)に鹿児島城下で生まれ、東京の専修学校で経済学を学び、大阪で経済学を講じながら史学を修めた。のち福岡に移り、福岡藩の維新前後や人物を研究し、貝原益軒全集や平野国臣伝を出版する。昭和五年四月二十四日、六十五歳で没した。

 大正末年、春山は福岡市内の女学校で組織された向陵会の依頼により望東の伝記を執筆、完成させる。ところが向陵会は一部修正を求め、春山が応じなかったため出版は中止になったという。その原稿は散逸したが昭和四十二年、福岡市の古書店で見つかり、昭和五十一年に文献出版から『野村望東尼伝』としてようやく出版される。望東会長進藤一馬が刊本に寄せた序文では執筆当時、出版されなかった理由を「あまりに率直な学術的論調のため」とする。「率直な学術的論調」こそ、正確な伝記執筆には最も必要な要素だろうが、それが理由で出版中止になったとすれば、当時の望東顕彰の中の歪んだ郷土愛的な性格がうかがい知れる。

 春山没後に大熊が編集、出版した『春山育次郎回顧録』(昭和六年)に収められた中村能道「益軒・国臣・望東三伝に就て」には、春山が指摘したという望東顕彰の問題点を四点掲げているが、うち三点は清子が行った平尾山荘の復元、整備に関する次のような内容である(四三頁)。

一、山荘趾に山路すが子女史の独力を以て建てられたといふ、石碑は其の碑蔭の文が歴史的事実に相違せることを書いてあつて、天下後世を誤るものであるから、之を全然撤廃するか、少なくとも山荘の境外に移転すべきであるといふこと。

一、山荘の建物は旧家屋とは大なる相違があるから、出来る丈け忠実に旧家屋通りに改築すべきであるといふこと。

一、山荘の庭園は一木一石と雖、尼が多年苦心経営せられしものであるから、是れも亦忠実に復旧を計るべきであるといふこと。

 このような指摘がなされたりして、さすがに向陵会でも望東顕彰の見直しが検討され始める。大熊は③で、次のように述べる。

山荘碑文史実の誤謬に就ては、曩に世上の問題となり、近時向陵会に於ては之れが撰文改訂の議台頭し、或は之れを取毀ち新たに改訂碑を建つべしと云ひ、或は碑文の一部を改竄すべしと云ひ、又は之れを伝説として現碑を保存すべしと云ひ、其議懸案となりしが、結局は別に改訂碑を建設すべしとの議に一決せりと聞及べり。

 だが、山荘の建物も碑も、改められることはなかった。春山が没した昭和五年は世界大恐慌の波が日本に押し寄せ、翌六年には満州事変が起こり、きな臭いムードの高揚とともに、福岡では望東が盛んに女子教育の教材に使われる。そうなると史実よりも、フィクションの方が利用しやすかったのだろう。

 さらに決戦体制下の軍国主義的教育が進む中、昭和十七年度採用の国定修身教科書(初等科修身四)に「野村望東尼」の一篇が収録された。これは、晋作が月形洗蔵に伴われて山荘を訪ね、望東に迎えられる場面に始まる。そして「小倉まで来てゐた薩摩の西郷隆盛を晋作とあはせるようにしたのも望東尼であつた」「山荘での会見で、二英雄の意気があつて、勤皇討幕の実をあげる薩長聯合の力強い大綱が用意されたのである」といった逸話を紹介した後、「女の身ながら、勤皇の精神にもえた望東尼の一生は、なんといふかがやかしいことであろう。平尾山荘は、今もなほ人々の心をはげましてゐるのである」と、しめくくる。碑文を下敷きにしたような話が「国定修身教科書」に掲載されてしまったから、改訂など出来なくなったのではないか。清子らによる「箔づけ」と「修身」の関係は不明である。だが、まったくの偶然とも思えない。いずれにせよ、ここに至り望東は福岡ローカルではなく「日本女性の鑑」にされてしまった。

  林元武の回顧録

 筑前における晋作と望東の交誼は小説や錦絵、江島や清子による創作に振り回されることなく、一旦リセットして整理する必要があるだろう。

 九州亡命中の晋作の書簡は十一月十四日、長州にいる義弟高杉百合三郎(南貞助)にあてた一通(『久坂玄瑞史料』七七四頁以下)が確認されているが、「此節は筑藩に潜居、天地之周旋致居候」などと知らせるものの、望東や山荘については一言も触れていない。

 『入筑始末』でも名が挙がった、当時を知る関係者のひとりに林元武がいる。福岡藩士の林は「乙丑の獄」に連座して投獄されたが、死罪を免れ、維新後は福岡中学校長などを務め、明治四十三年七月五日に没した。林が明治四十一年に残した回顧録(福岡市立中央図書館蔵)によると、九州亡命中の晋作と行動を共にする機会も多かったようだ。博多に戻った時の晋作の様子を林は「高杉を牛町千(仙)田方に伴ひ、協議の末、野村望東尼に謀り、仝氏の山荘に移す。当時山荘には同志瀬口三兵衛あり、之を留守し居りたり」と、簡潔に語る。

 さらに詳しい記述が明治半ば頃、毛利家編輯員中原邦平が採取した『筑前藩林元武君談話』(山口県立文書館毛利家文庫蔵)にある。それによると林らは博多に戻って来た晋作を最初、櫓門の仙田雪子(長州軍に加わり死んだ仙田一郎の妹)方で匿おうとしたが、「女子だけだから」と断られ、野村家の「向が岡の茶室」に着目する。これが、平尾山荘である。林らは練塀町にあった同志野村助作(望東の孫。当時上京中)宅を訪ねて交渉し、使用許可を求めた。助作の妻が難色を示したりしたが、結局は許可される。

 当時、山荘は大砲の「打ち試し」のため、「関口三平」(瀬口三兵衛か)が借りていた。林らは瀬口三兵衛に晋作の世話などを頼み、訪れた晋作も「見晴しも好い、極く宜い所だ」と、気に入る。瀬口は晋作の「若党のやように」なり、晋作が蓮根を食べたいと言うと、調達したりした。

 そのうち「望東尼と云ふ婆々の話も出て、望東尼の方でもそう云ふ人なら面白からう。一遍伴れて来て下さらぬか」となる。晋作も望東の歌を見て興味を抱く。「其中に望東尼が来て話を」し、つづいて晋作が練塀町の野村家を訪ねる。この時は月形洗蔵も同席したという。

望東尼も大に悦んで、歌を詠んで見せる。高杉も斯う云ふ詩を作つたと云ふて聞かせる。酒を飲んだりして二三回も往来して居ると、高杉も毎日暇だから話に出掛ける。其中にあなたみたやうな人物は一度も未だ妾は見たことがなか、と云ふので大はまりにはまつた。

 林の回顧録によると、晋作が望東と交流したのは山荘というよりも、練塀町の野村家である。また潜伏先が山荘に決まった理由も、望東ありきでは無いようだ。そうなると、山荘の「史跡」としての在り方はいまなお誤解を与え、中島・春山らの指摘も含め、多くの問題を抱えていると言わざるを得ない。

 ただ、林も晋作が山荘で西郷と僅かにだが会った旨を述べており、問題を残す。福岡人林の当時の立場が、そのように言わせたのだろうが、この点については別の機に考えたい。清子については最後に中原邦平が「平尾山に小さい娘が居りましたか」と問うと、林は「あれは須賀子とちくし、望東尼の歌の弟子です」とだけ答えている。中原が清子(須賀子)の数々の「証言」を疑問視していたことを、うかがわせる。なお、林は晋作が山荘潜伏後に田代に赴いたと語るが、これは単なる記憶違いだろう。

 春山も、晋作の九州亡命時、望東は練塀町で起居し、山荘は瀬口に託していたと繰り返し述べる(『野村望東伝』一八七頁以下)。月形の叔父の長野誠が明治二十二年に編んだ『筑前志士伝』(福岡市立中央図書館蔵)の瀬口の項にも「高杉晋作春風来奔シテ平尾村ニ匿レシ時、志士善和(瀬口の諱)ヲシテ侍セシメ、炊爨ヲ執ラシム」とある。さらに『山路すが子』にも望東の使いとなった清子が、嫌がる瀬口に「朝夕の御給仕」を依頼する場面がある(三一頁以下)。翌年、瀬口は「乙丑の獄」に連座し、二十九歳で斬首された。

 晋作が望東にあてて「先日御厄害に相成候儀千万奉恐入候」云々と何かに対する礼を述べた短い書簡があり(福岡市立博物館蔵)、年は無く、月日は「十一月廿七日朝」になっている。この書簡は「元治元年」の、山荘潜伏の礼を述べたものと解釈されることが多い。私もその可能性が高いと思うが、絶対だとも言い切れない。慶応二年九月十六日、望東は姫島の獄を脱し、翌日、晋作がいる下関に迎えられたから、「慶応二年」の可能性も考えられなくはない。

 春山の望東伝で紹介された慶応二年十一月七日、望東が下関から福岡の家人にあてた書簡(三三四頁以下)は「高杉ぬしは我山里に隠れすまれしむかしのゆかりに」と、晋作の山荘潜伏に触れる。また、「長も高杉一人の力にてかゝる国柄となりたるさまになん、誠に\/日本第一の人と、こゝの人も山中あたりもいひ侍れ」と、絶賛する。両者間に信頼、尊敬の念が芽生えていたことは確かなようだ。

 なお、晋作と西郷は元治元年十二月十二日、下関で会見したとの説もあるが、これは梅渓昇「馬関挙兵直前における高杉晋作の心情」(『日本歴史別冊 伝記の魅力』昭和六十一年)などで検証されているから、今回は触れない。また、晋作の山荘潜伏については全晋連発行『晋作ノート』55号(本年五月発行予定)にも書くつもりなので、併せてお読みいただければ幸いである。

     (『萩博物館調査研究報告』17号・2022年3月)


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