久坂玄瑞とある土佐人

久坂玄瑞とある土佐人

以蔵が斬った男

 幕末、土佐の岡田以蔵が京都で、幕臣勝海舟の警護を務めたこと時のこと。寺町通りで三人の刺客に襲われたが、うち一人を以蔵が「真っ二つ」に斬り、あとの二人は逃げたと、後年海舟は『氷川清話』で語っている。勝新太郎が以蔵に扮した映画「人斬り」(昭和四十四年)では、長州の久坂玄瑞が放った刺客となっていた。久坂云々はフィクションとしても、その正体は反幕的な「志士」だろう。だが、維新後「殉難者」として顕彰された「志士」の中に、適当な者が見当たらない。斬られた刺客は、何者だったのか。

 この件につき、インターネット「またしちのブログ(二〇二〇年二月)」に、以蔵が斬ったのは土佐脱藩の豊永伊佐馬(高道)ではないかとの興味深い指摘、考察がある。

 豊永伊佐馬ならば「殉難者」として従五位を追贈され、靖国神社にも合祀されている。天保十二年(一八四一)、土佐郡細工町に生まれた豊永は、寺石正路『土佐偉人伝』(昭和三年三版)によると、読書に倦むと塀の上で熟眠したとか、一升飯を食らって二、三日何も食べなかったという。吉村虎太郎の同志で、文久二年(一八六二)十二月、脱藩して上京。『土佐偉人伝』や瑞山会『維新土佐勤王史』(大正元年)によると文久三年「七月四日」、四條畷で、「何者」かに暗殺されたとなっている。宮内省『修補殉難録稿・下』(昭和八年)では「七月四日」に「四條の畷」で、「新撰組」に暗殺されたとする。

 ところが伊佐馬の八歳下の弟豊永貫一郎(高義)が明治七年(一八七四)に書いたとみられる『勤王殉国事績』では「五月二十一日」、「新選組」に「四條畷」で暗殺されたとし、遺骸を埋めた場所は不明とある。なお、四條畷は「縄手通り四条」の誤りではないか。ならば、寺町通りも近い(ちなみに、ある長州人の全く別の件の回顧談にも、縄手通り四条を四條畷としたものがあった。あるいは、そのように呼ぶのかも知れない)。

 「海舟日記」によると、海舟は五月十日から十五日までの間に、大坂から入京したと見られる(講談社『勝海舟全集・1』昭和五十一年)。以蔵の事件は「海舟日記」に記述が無いが、件のブログは弟貫一郎が記した「五月二十一日」を重視する。「海舟日記」によると二十二日に吉村虎太郎が訪ねて来たり、二十三日に「京都殺伐の風聞」を聞いた「門生四人」が大坂より上京して来たりと、確かに騒がしくなっている。

 以蔵が伊佐馬を斬ったとすれば、はからずも土佐人の「同志討ち」になってしまう。それは、あまりによろしくない。そこで遺族に知らせる際は犯人を「新選組」にして、後世、顕彰の立場から歴史を編む際は「五月二十一日」から「七月四日」に変更し、目暗ませを行ったのではないかとの推察は腑に落ちる。明治政府側にとり不都合な「同志討ち」は、歴史から極力抹消したかったようで、私も幾つか他の例を知っている(拙著『長州奇兵隊』平成十四年)。

久坂玄瑞との関係

 以蔵に斬られたのが豊永伊佐馬とすれば、私も弟貫一郎が記した「五月二十一日」の方が、信憑性が高いと考える。なぜなら事件後、兄の志を継ぐべく上京した貫一郎が、薩摩藩邸で長州の久坂玄瑞(義助)に接触した形跡があるからだ。

 私の蔵書中に、軸装された小色紙くらいの久坂遺墨二点があり、「君は今ころ駒かたあたりなひてあかせし山郭公月の影見りやおもひだす」「いにしきのこゝにてあれはよそにみて世の憂事もいろはわか身に」とある。落款は無いが、久坂の筆跡と見てよかろう。そして「…此書は長藩久坂玄瑞〈通称義助〉の在京都白川薩邸豊永高義〈土州人、通称貫一郎ト言〉の習字帳の裏ニ戯書せるもの也。予京師を去るの日、豊永氏の贈らるゝものなり。時は明治三年七月也。義業誌」との、貫一郎から久坂遺墨を譲られた旧蔵者(詳細不詳)による箱書が付く。

 脱藩した貫一郎は土佐藩邸には入れず、白川云々はともかく、薩摩藩の同志を頼り、潜伏したのではないか。一方、このころの久坂は慌ただしい。六月一日、京都に入ったが、十五日には山口に帰る。つづいて二十三日に山口を発ち、二十八日には再び入京した。そして攘夷祈願の大和行幸のため、奔走する。

 伊佐馬が殺され、土佐の遺族に知らせが届き、貫一郎が上京し、久坂と会うまでには相応の時間が必要だろう。それがひと月半以上かかったとすれば、「七月四日」では貫一郎が久坂に会うのは時間的に厳しい。なぜなら八月十八日に政変が起こり、大和行幸が中止となり、京都政局での地位を失った長州藩は、薩摩・会津藩を激しく敵視するようになるからだ。八月十八日以降なら、久坂が薩摩藩邸に立ち入ることはまず無い。

 久坂・貫一郎を薩摩藩邸で会わせるなら、事件は「五月二十一日」の方が、妥当である。久坂は兄を失った貫一郎に、激励の言葉のひとつも掛けてやっただろうか。なんらかの真相を、知っていたのだろうか。そして、刺客の黒幕はいたのだろうか。

 薩摩藩は五月二十五日の公卿姉小路公知暗殺事件の嫌疑により、同月二十九日に御所乾門の守衛役を解かれ、九門出入を禁じられていた。それでも七月二日には錦江湾でイギリス艦隊相手に戦ったので、奉勅攘夷に凝り固まった長州藩は共感し、薩摩藩に慰問状を送る。だから政変前なら、「横議横行」を得意とする久坂が、薩摩藩邸に出入りしてもおかしくはない。

 貫一郎はその後、坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺に対する報復である天満屋事件に係わったりした。件のブログによれば維新後は山梨県北都留郡の郡長を務めたが、明治二十七年に辞している。心臓病で苦しんだようだが、同二十九年、台湾の台南地方法院検察官兼台南部警察部長に就任。だが、同三十一年四月に非職、同年九月二十七日に依願退職した。以後の消息は不明という。

 久坂は元治元年(一八六四)七月十九日の「禁門の変」に敗れ、二十五歳で自決した。その後、薩長は提携して討幕を画策し、明治政府の中心勢力となる。こうした連携は久坂が万延元年(一八六〇)から文久元年(一八六一)にかけて、江戸で水戸・薩摩・土佐などの同志と藩や身分の垣根を越えて交流した「横議横行」が原点だった(高杉晋作も文久の頃「横議横行」に加わった形跡はあるが、他藩士との交流はあまり得意ではなかったようだ)。

 そのためか、薩摩藩では没後も久坂を慕う者が少なからずいたらしい。慶応二年(一八六六)四月一日、京都の薩摩藩邸に潜伏する長州の品川弥二郎が、国もとの木戸孝允にあてた手紙に「…久坂等の手跡、何卒御送り下さるべく、糾合方より段々頼まれ候に付き、どふぞ願い上げ奉り候」とある(『木戸孝允関係文書・四』平成二十二年)。

 久坂は「横議横行」の際、亡師吉田松陰の遺墨を他藩とのコミュニケーションツールに使った(拙著『久坂玄瑞』平成三十年)。そして久坂の遺墨も、似たような使われ方をしたというのが面白い。貫一郎が久坂から貰った書も、「横行横議」の片鱗を伝えていると言えよう。

                    (『晋作ノート』54号、2022年1月)


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