子煩悩な高杉晋作

晋作の詩書

 市場で売買される「高杉晋作遺墨」の九九パーセント以上は、贋作だ。真筆には一、二年に一度お目にかかれれば良いくらい。それが晋作百五十年祭の今年は、私の知る範囲でも、すでに三点も真筆が出て来ている。このままでは流出しかねないので、いずれも個人で購入しておいた。私は晋作百年祭の昭和四十一年(一九六六)に生まれ、今年満五十歳の誕生日を迎えようとしている。そんな節目の年、この豊作には不思議な縁を感じてしまう。

 直近で手に入れたのは、名古屋の古美術商が持って来てくれた詩書の軸だ。本紙はおよそ縦一九、横一五・三センチと小品である。署名は無く、あるいは帳を崩したものかも知れない。

 筆跡は、晋作の癖が実に良く出ている。右肩に捺された関房印は高杉家に伝来した晋作の遺品中に実物があり、他の確かな遺墨(たとえば国会図書館憲政資料室蔵石田英吉文書中の晋作詩書)でもお馴染みのものだ。そして何よりも、詩の内容が泣かせる。

「待童欲慰我愁思

 携得桜花々一枝

 好挿小瓶相対座

 忘他疾病在膚肌」

 この五言絶句は晋作の詩稿「捫蝨集」(『高杉晋作史料・二』平成十四年)にも、「病中作」として出て来る。場所は下関で、慶応二年(一八六六)の四作目の詩である。

 子供が自分を慰めようと、桜花を一枝携えて来てくれた。それを小瓶に差して対座していると、病気のことを忘れてしまいそうだ、との意味であろう。

 では、晋作に桜花を届けた子供とは誰か。本来「侍童」とは貴人の側で仕え、身の回りの世話をする子供のことだが、必ずしも額面どおりではないだろう。実はこの年二月二十三日、数えで三つになる晋作長男の梅之進(のち東一)が、母や祖母たちとともに萩から下関に出て来ている。旧暦だから桜の季節だ。晋作に桜花を届けたのは、よちよち歩きの梅坊(晋作はそう呼んだ)ではないか。

 ほんの一瞬の、父と息子の交流だ。一年後、晋作はこの幼子を残し、亡くなった。そう考えて対峙すると、なんだか切なくなる遺墨である。

マサの回顧談

 晋作の五十年祭にさいし、「朝日新聞」大正五年五月九日号に妻マサは回顧談を発表しているが、その中に次の一節がある。

「至って子煩悩で、三つや四つの子供であったが、

『偉くなれ、偉くなれ、国の為に尽くすようになれ』

 と、申しておりました」

 晩年の晋作は下関で起居していたから、萩で育つひとり息子の梅之進と一緒に過ごす時間は、ほとんど無かった。

 先述のように慶応二年二月二十三日、数えで三つになる梅之進は母たちに連れられ、下関に晋作を訪ねている。しかし、もろもろの事情から晋作は約ひと月後の三月二十二日、妻子を下関に置き去りにしたまま、海路長崎へと旅立つ。右のマサの回顧談は、この間のことかも知れない。

 長崎に到着した晋作は、妻マサに下関での非礼を詫びる長い手紙を書いているが、その中で梅之進のことにつき、「なおまた梅坊事は、御父さまに似候よう御育て下され候よう」云々と頼む。自分ではなく、謹厳実直な父の小忠太(丹治)に似るように育てて欲しいというのが、面白い。

 また、その年の十二月二十四日、晋作が下関の病床から萩の父にあてた手紙には、

「梅坊も日を追って成長、言語等も相わかり候の由、さぞさぞ御胆焼きの事と愚察致し居り候。此の一事私儀大不幸(不孝)中の一幸(孝)、是れ又、御先霊神明の御影と、かねがね落涙罷り在り候」

 とある。父の意に背き、危険な政治運動に身を投じた晋作は、一人息子だったこともあり、死ぬまで後ろめたさを感じていた。それでも子孫を残すことが出来た、ご先祖のお陰であると、涙を流しているのである。

届かなかった短刀

 梅之進が生まれたのは、元治元年(一八六四)十月五日だ。十一月、晋作は九州筑前に亡命し、十二月には「俗論党」打倒を掲げて下関で挙兵し、内戦のすえ藩政府の主導権を奪う。ここで大胆な行動に打って出たのは、梅之進誕生により、自分が死んでも血筋は残るとの安心感を抱いたからではないか。

 挙兵前、晋作は五卿西遷の問題で下関に来ていた福岡藩士月形洗蔵・早川養敬(勇)と酒を酌み交わした。そのさい晋作は生まれたばかりのわが子のことを、次のように語ったという。

「僕と月形君とはその性質能く似たり。抗直にして長く此の世に生存すべき者にあらず。ただ早川君は温厚にして能く寿命を保全し、必ず僕等よりも後に生き残られるなるべし。僕に一人の子あり。この子幸い俗論党の為めに殺されずして生長し、僕が中途に斃るるに至らば、早川君今日の交誼を以てこれを視られよ」(江島茂逸『高杉晋作伝 入筑始末』明治二十六年)

 月形は翌慶応元年(一八六五)十月、福岡藩の弾圧に連座して処刑された。晋作も同三年四月、病没した。生き残った早川は維新後、奈良府判事を務めていたさい、晋作との約束を思い出し、短刀二柄を装飾して、ふたりの遺児に贈ろうと考える。それは月形の遺児へは届いたが、晋作の遺児へは従僕の藤次郎が途中、大阪で売却してしまったので届かなかったらしい(この逸話は早川から直接取材して書かれた文献に出て来るから、信憑性が高い)。以後、早川は司法権大丞・元老院大書記官などを歴任し、明治三十二年(一八九九)に他界した。

晋作と少女たち

 晋作は「子煩悩」というか、少女好きだったようだ。小さな女の子は、同年配の男の子よりも「おませさん」が多く、それが微笑ましくて相手をしていると退屈しないものである。そのことをうかがわせる逸話を、いくつか紹介しておこう。

 晋作には三人の妹がいたが、十数歳離れた末妹のミツを、最も可愛がったようだ。文久三年(一八六三)四月、妻を連れて萩の松本村に隠棲した晋作は、城下菊屋横町の自宅からミツ(年齢は十歳ほど)を連れて帰ることがあった。坊主頭の晋作は、頬被りに落とし差し(刀の差し方)で、妹の寝巻が入った風呂敷包みを首に掛け、少女の手を引いて寂しい夜道を、歌いながら歩いたという。そして家の戸を叩き、妻を呼んで「ソラお友達を連れて来た」と言った。あるいは自宅ではミツとお弾きをしたり、ミツとマサと川の字になって籐の寝台に寝転んで、戯れたという(横山健堂『高杉晋作』大正五年。その後ミツは高杉家を継ぎ大正元年まで生きたが、回顧談を残していないのが残念である)。

 九州筑前に亡命したさい、野村望東の平尾山荘で晋作の身の回りの世話をしてくれたのは、吉井清子という十四歳の少女だった。清子は皇学者の娘で、のち山路重種の妻となった人。ある時、晋作は清子に「阿嬢も大和心を持てるや」と問うたところ、清子は「我もまた同じ御国に生れ来て大和心のあらざらめやば」と歌で返事したので、感心したという(『高杉晋作伝 入筑始末』)。

 朝日新聞下関支局の記者が、地元に伝わる昔話を拾い集めた『馬関太平記』(昭和三十年)という本がある。その中に、下関の山形屋という魚屋の五、六歳の娘カネを、晋作が可愛がったという話が出て来るが、それは次のような不幸な結末で終わる。

「ある日のこと、飄然としてあらわれた晋作は山形屋の娘が店の表で遊んでいるのを見るなり、やにわに両手をひろげて抱きかかえた。

 ところが、どおしたはずみか晋作の刀の柄がその娘の右の目を突いた。それがおこりで可愛いさかりの山形屋の娘は遂に半眼を失ってしまった。その娘の名はカネといい、私の友人である山形吉蔵の祖母にあたる」

 少女を失明させてしまった晋作は、大いに悔いていたとの話を、他の何かで読んだ記憶がある。この逸話のせいでカネさんは、かつて下関では、ちょっとした有名人だったようだ。

 (『晋作ノート』38号・平成28年11月)


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