吉田稔麿と八幡信仰 (「はぎ博ブログ」一部改稿)

八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊とされ(異説あり)、皇祖神として位置付けられる。また、清和源氏は八幡神を氏神として崇敬したから、中世以降は武家の守護神にもなっていた。八幡大菩薩とは、神仏習合による神号である。

松下村塾の俊才、吉田栄太郎は八幡神を熱心に信仰していたようだ。理由は分からない。ただ、思想的、政治的背景があったわけではあるまい。

万延元年(1860)10月3日、20歳の栄太郎が出奔先から長州の伯母里村スミ(母イクの末妹)にあてた手紙がある。時候の挨拶のあとで栄太郎は前月22日早朝から流行の「はきくだし」にかかったと、いきなり知らせる。「その日二十五、六度もかよひ」というのは、頻繁に便所に行ったとの意味だろう。それほど嘔吐下痢が続いたのだから、凄絶だったに違いない。さすがに「晩方にはあやうく考えられ、声もかれ、腰も立ちがたく」という、大変な状況になってしまった。

そこで栄太郎は八幡神に、ひたすら祈る。祈り続ける。「快よくあい成り候はば、御礼に百ケ所の八幡宮社へ参り申すべく」と誓った。すると「ふしぎに明くる朝よりひ快気いたし」、「薬もただ五服」飲んだだけで済んだと喜んでいる。この手紙の主旨は「はきくだし」であり、他に大した話題は述べられていない。八幡神がいかに有難いかを伯母に伝えたかったようだ。変わった手紙である(『野史台維新史料』)。その後、栄太郎が約束とおり百カ所の八幡宮に参ったか否かは知らない。現在でも八幡社の数は、全国に一万とも二万とも言われる。「はきくだし」に、どれほどの霊力があるのかは分からないが。

昭和34年(1958)に萩の松陰神社境内にオープンした松陰遺墨展示館にはかつて、子孫から寄託された栄太郎の「誕生日の晴衣」が展示されていたようだ。これは文久3年(1863)正月、「誕生祝いに着て赤間関亀山八幡宮に詣でた時の上衣」だったという。真偽はともかく、八幡宮参りが栄太郎の人生にとって重要なイベントだったことをうかがわせる逸話だ。

栄太郎が稔麿と名を変えたのは、文久3年7月のことである。理由は簡単。長州藩にもう一人「吉田栄太郎」という同姓同名人がいたからだ。

『萩藩給禄帳』によれば、もう一人の栄太郎は安政2年(1855)当時18歳で、稔麿よりは3つ年長。家格は大組(馬廻り・八組)で、家禄は67石5斗というから、中間(槍持ち)の栄太郎こと稔麿よりも遥かに身分が高い。しかももう一人の栄太郎は、安政4年に江戸の練兵館で剣術修行したことが分かっている。やはり栄太郎稔麿の方も練兵館で修行していたから、確かにややこしかったのだろう。

「お前まぎらわしいっちゃ、名前変ええや」

なんて上から目線で言われ、とうとう変えることになったのかも知れない。文久3年7月6日の母あての手紙には、「吉田栄太郎は別にこれ有り候ゆえ、名をかえ候よう仰せ付けられ候」と、ちょっと悔しそうだ。

しかし、転んでもただでは起きない栄太郎である。稔麿という、なんとも高貴な殿上人のような名に変えてしまったのだ。「やっぱり、まろだよなあ」と言ったかどうかは知らない。翌7日の父母あて書簡には、次のようにある。 「吉田栄太郎はささわり(差し障り)これ有り、改名いたし候ようとの事、幸い椿八幡宮神主青山上総助にあい申し候間、名をたのみ申し候ところ、年麿と付けくれ申し候」

萩城下の総鎮守であり、同地方八幡信仰の中心である椿八幡宮(現在の萩市椿)の宮司が、名付けてくれたというのだ。熱心な八幡信者の稔麿である。萩に住んでいたころは、足繁く参詣していたのだろう。ちなみに宮司の青山はのちに奇兵隊の神事なども執り仕切り、明治になると東京の靖国神社にも深く関わった。

なお、「稔麿」と書籍などでは出ているが、本人は「年麿」「年麻呂」「年丸」などと署名しており、管見の範囲では稔麿という自筆は見当たらない。もっとも年と稔は同意味だから、それはそれでいいのかも知れない。新しい名の由来を、稔麿は同じ手紙で父母に知らせる。

「年と申すは豊年と申す事にて、よい田のほう年と申す心にござ候」

こうして見ると、やはり年麿または年麻呂と表記するのが一番いいと思うのだが、なぜ稔麿になってしまったのだろうか。

だが、稔麿にはあと一年の余命も無かった。元治元年(1864)6月5日、京都で起こった、いわゆる池田屋事変で24歳の生涯に幕を下ろしたからである。「はきくだし」の時に大活躍した神様は、残念ながら今回は助けて下さらなかったようだ

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