晋作と小梅村

晋作と小梅村

日本橋から小梅村へ

 儒者の大橋訥庵(順蔵・正順)は、長沼流兵学者清水赤城の四子として文化十三年(一八一六)、江戸に生まれた。佐藤一斎などに師事し、豪商大橋淡雅(佐野屋)の婿養子となり、宇都宮藩士の籍を手に入れる。西洋嫌いの急進的な尊攘論者で、『闢邪小言』『隣疝臆議』『元寇紀略』などを著し、その影響は各地に及んだ。例えば吉田松陰の萩の野山獄中における読書録に、大橋著『隣疝臆議』『訥菴上書』が見える。

 安政五年(一八五八)八月十六日、遊学目的で江戸入りした高杉晋作は、早くも十九日、大橋が主宰する思誠塾に入門した。諸書によれば思誠塾は日本橋にあったとされ、私もそのように書いて来た。近年の研究でも梅渓昇『高杉晋作』(平成十四年)は、「日本橋(東京都中央区)」とする。だが、海原徹『高杉晋作』(平成十七年)では「向島小梅村、今の墨田区向島」となっている。これはどうしたことか。以前に入手し、ほとんど未読の寺田剛『大橋訥菴先生伝』(昭和十一年)を拡げたら、なんのことは無い。一一九頁に「小梅閑居」の項がある。

 同書によると安政二年(一八五五)十月二日の「安政の大地震」で、日本橋松村町にあった大橋の自宅兼塾舎は、ほとんど倒壊した。これを機に大橋は長らく住んだ城内の地を離れ、郊外の小梅村での閑居生活を望む。同年末に許可が下り、翌三年四月、俳優のもと別邸だった屋敷に移転した。安政三年六月、大橋は楠本端山あて書簡で、次のように述べている。

「此度草堂は疇●間に独立、籬外水田漠々耳目の所、接花并禽鳥などにて聊塵襟を濯候様存候」

 また、母民子あて書簡では、次のように知らせる。

「矢ノ倉(前住所の近く)よりは又一段之風色有之、広く野面を見晴らし、屋敷内にも畠多く、水鷄・鴬之類など、垣外へ下り居候体、随分田舎之趣に御座候」

 いずれにせよ、周囲を田に囲まれた一軒家だった様子がうかがえる。嘉永六年(一八五三)のアメリカ・ペリー来航以来、大橋は上書をたびたび提出したが、幕府は採用しなかった。そのため空しさを感じ、被災以前から江戸を離れ、農民になりたいと希望していたようだ。

 念願かない小梅村に閑居した大橋は、接客の日程や手紙の受け取り場所などを記したチラシを作り、配布する。もっともこのパフォーマンスは、学者仲間では不評だったらしい。

思誠塾と長州藩関係者

 高杉晋作が入門したのは、時期から考えても小梅村の思誠塾であることは動かしようがない。そもそも大橋と長州人との因縁は、浅からぬものがある。古くは大橋の父清水赤城が長州藩士山田亦介に『兵要録』を指導し、それを亦介は吉田松陰に伝えたりした。

 晋作と前後して思誠塾には、何人かの長州人が出入りした。そのひとりで、当時下級武士だった伊藤博文は後年、次のように回顧する(『伊藤公全集・三』昭和二年)。

「其頃長州に清水清太郎と云ふ寄組(長州士族の第二階級にて家老職を勤むることあり)の有志があつて、此人が大橋順蔵の門に始終出入して講釈を聴きに行かぬかと云ふから、大橋順蔵の所で大学の講釈などをして居たから、それを聴きに行きをつたものだ」

 また、長州藩大組士の楢崎弥八郎も熱心に通っていた。ところが長州藩では、「訥庵の学風宜しからず」との理由から、楢崎と清水を退塾、帰国させる。清水の江戸発足は文久元年(一八六一)八月二十九日、正式な退塾は九月六日附。楢崎は八月二十五日に江戸発足、九月二十六日に周防花岡駅着、晦日に萩に帰った(河野通毅「楢崎弥八郎清義伝」『河野通毅遺稿集』平成四年)。楢崎が江戸を離れる際、晋作は次の七絶を贈っている。

「一歳豪遊入荏門 真心自守闢邪言

 憶君此去帰郷後 夢在墨陀水畔村

  送節庵兄    楠樹小史」

(一歳豪遊して荏門に入る。真心自ら守る闢邪の言。憶ふ君此を去りて帰郷の後。夢は在らん墨陀水畔の村)

 起句の「荏門」は江戸のこと。承句の「真心自ら守る闢邪言」は、大橋の代表的著作『闢邪小言』の教えを守るとの意味で、楢崎の大橋への傾倒ぶりがうかがえる。結句からは、塾が墨田川畔に在ったことが分かる。

 他にも思誠塾には、家老益田家の家来荻野佳十郎や、輪王寺宮を擁して挙兵を計画した右田毛利の家来多賀谷勇ら長州藩関係者が出入りしていた。

思誠塾での晋作

 世捨て人を気取っていた大橋訥庵だが、勅許無しの条約調印問題や桜田門外の変などで世が騒がしくなると、黙っていられなくなる。こうして思誠塾は俄然、政治的なカラーを強めるのだが、晋作が入門したのは、まさにそんな時だった。

 思誠塾における、晋作自筆「訥庵先生講義聞書」が伝わる(『高杉晋作史料・二』)。これは「十月五日会、中庸二十七章目之二節ナリ」「十月廿日、中庸会二十九章之二説目ヨリ」「近思録二月十七日講義」と続き、「入塾纔一二月、有故退門於是聞書半而罷」とあって、唐突に終わる。

 十月はじめ、晋作が萩にいる吉田松陰にあてた手紙には「私も先達てより大橋塾に入込候処、愚に堪かね、此間より上屋舖西長屋へ中谷(正亮)君と同居仕候」とあり、何らかの不満を抱き、遠ざかったことが分かる。

 史料図録『維新志士正気集』(明治四十四年)には「思誠塾日記」が一丁分だが、掲載されており貴重だ。解説には「塾生毎日輪番に当直して、その日の事を録す。今現に大橋氏の家に伝う」とあるが、当番の晋作が二日分を書いている。それは安政五年の九月か十月と考えられる、次のようなものだ。

「廿六日雨   高杉晋作

朝。須伊使来〈遣闢邪五部・元寇三部〉〇午後制本屋来〈致闢邪三十部〉」

「廿九日晴   高杉晋作

朝。雨森三蔵来謁〇晋作之于上邸〇午後要玄之昆氏〇寿次之万忠〇泉吉使来〈遣小言五部〉〇杉浦君使来〇荒井金次郎来謁」

 これを読むと、晋作は来客の受付や大橋の著作の販売管理もさせられていたようである。このような毎日が、面白くなかったのかも知れない。

 なお、和宮降嫁に反対した大橋は、老中安藤信正暗殺計画の黒幕となった。そして、浪士たちによる坂下門外の変が起こる。しかし事件に先立つ三日前の文久二年一月十二日深夜、大橋は妻の実家に赴く途中、幕府与力に捕らえられ、南町奉行所を経て伝馬町獄に投ぜられた。七月七日に出獄し、宇都宮藩に預けられたが、同月十二日に没す。四十七歳。

思誠塾はどこにあった?

 晋作らが出入りした、思誠塾の跡は現在のどこだろうか。「小梅」の地名は昭和三十九年(一九六四)、地図から消え、墨田区の「向島」か「押上」に変わっている。いまは下町の風情が残る住宅街で、いたるとこからスカイツリーが見える。

 幕末ころの小梅村地図を見ると、隅田川東岸の二万三千百坪あまりを水戸藩下屋敷が占めており、その南西角を要として扇状に村が広がっていた感じである。現在、水戸藩下屋敷跡の半分ほどは隅田公園になっており、藤田東湖の「正気の歌」の碑などが建つ。そうして見ると、大橋が移って来る以前から、尊攘論の震源地だったのかも知れない。

 もっとも、思誠塾跡がどこなのか、区史などの地元資料を見ても、よく分からない。どうやら、忘れ去られた感じである。頭を抱えていたところ、福山藩の儒者江木鰐水の日記、安政六年二月二十五日の条に、小梅村に大橋を訪ねた、次のような記述があるのを知った(『大日本古記録 江木鰐水日記 上』昭和二十九年)。

「訪大橋恂三(順蔵)于墨陀川東小梅村、小倉庵東、循水上野水、小橋渡之得門」

 小倉庵は安藤広重の浮世絵「江戸高名会亭尽」シリーズにも描かれた程有名な料亭だった。先の伊藤の回顧録では、木戸孝允から依頼された伊藤が、坂下門外の変首謀者となる浪士細谷忠斎(平山兵介)に、小倉屋で金銭を渡したと述べている。その東、野水に従って上り、小橋を渡ったところが大橋邸の門だという。江木日記の「野水」とは曳舟川か、または曳舟川と隅田川を結ぶように流れる小川ではないかと推察する。曳舟川はかつて、オールを漕ぐのではなく、陸から縄を使い人力で引っ張る舟(サツパコ)が通っていたので、その名があった。いまは埋められ、川筋はそのまま「曳舟川通り」になっている。小川の方は住宅街になって、跡形も無い。

 つづいて江木は「家道富裕、家室殊美」と、驕奢な暮らしぶりに驚く。大橋の妻の実家は豪商で、しかも著作も売れていたから、学者としての収入も相当あったと見える。

 あるいは江木は、「和砲」を床の間に並べ、西洋の「鉄砲」を持たない、大橋の頑なな攘夷思想にも驚く。結局訪問者が多くてゆっくり話せず、退散したようだ。

「床并列和砲、此人有闢邪抄説著、要外夷如●、是誠可嘉、然誠可嘉、然不取銃砲、則似矯枉過直、出酒懽対、此人経義家、今日過訪亦為此也、而坐有人、不能縦談、有所間亦不能答、欲他日再訪、庶幾尽其蘊底也」

 これが、晋作が在籍した頃の思誠塾の光景である。晋作たちの間では、なかば常識と化していた、西洋文明の利器を使い西洋を打ち払うのではない。精神主義の大橋に、晋作は呆れたのかも知れない。

 さて、江木日記の「野水」を曳舟川とすれば、思誠塾は現在の向島三丁目、曳舟川通りに面した一角と考えられる。あるいは「野水」が別の小川とすれば、現在の向島三丁目三〇・三四・三五あたりかとも思う。いずれにせよ、向島三丁目のどこかだろう。俳優の別邸というヒントも含め、今後絞り込んでゆけたらと思う。

 大橋が小梅村に住んでいたことを偲ばせるモニュメントが、三囲神社(向島二丁目)の境内に現存する。「第二世松本斎一得君碑」が、それだ。松本は安政元年(一八五四)六月十四日、七十一歳で没した、遠州流の挿花師匠である。門人が建碑を計画し、大橋に碑文を頼んだという。「訥庵大橋正順撰文」「安政七年庚申三月晦日」などの文字が見える。政治的な意味はほぼ無い碑のようで、大橋が小梅村を拠点とする文人墨客の人脈の中にいたことを、うかがわせる。もっとも碑が建てられた安政七年(万延元年)三月は桜田門外の変が起こっており、大橋の心中は穏やかではなかったと推察する。

 本稿執筆にあたりすみだ郷土文化資料館福澤徹三氏より地図、碑文などの資料を頂きました。記して感謝の意を表します。

           (「晋作ノート」53号、2021年9月)



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