書評・片山杜秀『尊皇攘夷』

書評・片山杜秀『尊皇攘夷』(新潮社・2200円)

 3年前、政府が推奨した「明治150年」のキャンペーンは立憲政治の誕生や産業・教育の発展などを並べ、「明治の精神」「近代化」を称賛した。だが、近代天皇制や対外戦争、さらに、それらの源流とも言うべき「尊皇攘夷」については、一切触れていなかった。明治維新は全て、現代に直結するわけではない。大日本帝国は1945年の敗戦で崩壊したが、その視点が見事に欠けている。

 国を挙げてタブー視されてしまった「尊皇攘夷」だが、その誕生から展開を徹底的に説き明かしたのが本書だ。書名は「尊王」ではなく、「尊皇」になっている。中国起源の「尊王」だが、日本で王といえば天皇だ。だから、思想としては「尊皇」と表記した方が伝わるものがあるというのが、著者片山氏のこだわりである。

 「尊皇攘夷」の発祥地は、徳川御三家のひとつ水戸藩だ。十七世紀、水戸学を起こした徳川光圀は「尊皇」を唱え、天皇は正義を体現する唯一無二の存在とした。十九世紀になると、水戸沖に出没する西洋の捕鯨船と領内の漁民が、ひそかに交流。水戸の武士は、西洋の目的が侵略にあると疑い、「攘夷」を叫ぶ。さらに孝明天皇が外国人を嫌ったため、「尊皇」と「攘夷」は結び付き、観念的領域から実際的へと進む。水戸藩は内部分裂で衰退するが、「尊皇攘夷」は明治日本に引き継がれ、ナショナリズムの土台になってゆく。

 「尊皇攘夷」は外国を打ち払うだけではい。相手国に出向き屈服させ、神である天皇の威光を世界に広げようとする。日本による世界征服で、現代ならば荒唐無稽と一笑に付されるだろうが、かつては信じぬ者が「非国民」だった。

 光圀が『太平記』のような物語を歴史の真実と信じ込み、純粋培養された思想家になったとの本書の指摘は、歴史小説の主人公を崇拝し、時にみずからと重ね合わせて行動する現代の政治家や経営者に通じる。フィクションが、現実を支配する危うさである。

 500頁近い、膨大な情報が詰め込まれた思想史研究の超大作。不思議なリズムの文章で、三島由紀夫にまで話は飛んで、雑学の知識もたくさん身につくが、腹を括り読まないと、飲み込まれ、振り回されそうな迫力がある。

        (『日本経済新聞』2021年7月10日号)



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