「青天を衝け」人物事典
「青天を衝け」人物事典
1 栄一を育てた血洗島の人々
「青天を衝け」に描かれる青春期の渋沢栄一(1840~1931)は、その還暦を祝い出版された自伝『雨夜潭(あまよがたり)』が下敷きになっている。栄一少年が藍玉農家を競わせて品質を向上させたり、代官から理不尽な御用金を強要されて涙したり、山伏のインチキ祈祷を見破ったりというドラマの逸話の原型は、『雨夜潭』に見える。いずれも合理的頭脳で後年、日本経済の近代化を推進する栄一にふさわしい逸話だ。
ただ、妻となる千代(1844~82)との淡い恋などは、ドラマのフィクション。愛妻度はともかく栄一は栄達を遂げるに従い、たくさんの愛人を持ち、生ませた子供は五十人(異説あり)ともいう。明治のはじめ、大阪の愛人を東京に連れ帰り、千代と同居させたこともあった。無論、現代とは道徳観も違うが、この艶福家ぶりをドラマはどう描くのか。
千代の長兄・尾高惇忠(1830~1901)は藍香の号で知られ、栄一の十歳年長の従兄でもある。尾高家は代々手計(てばか)村の名主。惇忠は地区の若者のリーダーで、栄一も七歳から師事した。「読書は読み易いものから入るのが一番よい」と教え、歩きながらの読書も勧める柔軟な指導法だった。後期水戸学に影響され、実現はしなかったが、文久三年(一八六三)後半に栄一らと高崎城乗っ取り、横浜の外国人居留地焼き打ちを計画する。維新後は民部省に入り、富岡製糸場長なども務めた。
その弟・尾高長七郎(1836~68)は文武にすぐれ、江戸で尊攘運動に加わった。彼のような庶民層が政治に関心を寄せたのは、対外貿易により需要と供給のバランスが崩れ、物価が高騰したことが大きい。外国人を追い出さなければ、自分たちの暮らしが成り立たなくなると危惧したのだ。
だが、元治元年(1864)3月、現在の戸田市で通行人を誤って殺した長七郎は捕らえられ、伝馬町獄に投ぜられてしまう。明治元年夏に出獄したが、同年11月に故郷で病没。栄一は「めぐり合わせが悪かった」と、その早い死を悼んだ。
栄一の従兄・渋沢喜作(1838~1912)は元治元年(1864)、栄一と京都へ出、のちに将軍となる徳川慶喜に仕える。
栄一が渡欧中に幕府が瓦解して戊辰戦争が起こるや、喜作は彰義隊を結成。のち、離脱して振武軍を率い、現在の埼玉県飯能市で政府軍と戦うも、敗走した。この時、千代の弟で栄一の見立養子(相続人)になっていた渋沢平九郎(1847~68)が負傷し、自刃している。
明治になり、喜作は栄一に引き立てられて大蔵省に入り、養蚕研究のためイタリアへ渡る。帰国後は野に下って実業界に入り、生糸問屋をはじめ多くの事業に関係したが、何かと栄一の世話になったようだ。
ドラマの第一回には、西洋砲術家の高島秋帆(1798~1866)が登場。長崎出身の高島は天保12年(1841)、徳丸原(現在の板橋区高島平)で軍事演習を行い、名声を高めた。のち、讒言により岡部藩に預けられたが、ここは栄一の故郷と近い。ドラマでは栄一少年と高島を会わせたが、これはフィクション。高島に「国を護る」と誓う栄一は、のち経済活動で日本の独立を護ったことの伏線か。
近年の幕末大河ドラマの中では時代考証も含め、秀逸な出来である。ひとつ不満を言えば、栄一の原風景である「坂東太郎」の利根川を、ドラマの世界観の中に取り込んでいないこと。栄一の故郷である血洗島村(現在の埼玉県深谷市)は、その沿岸に位置する。地名の由来も、負傷した八幡太郎義家が川で血を洗ったとか、川の氾濫で土地が洗われるからだとか伝わる。対岸は群馬県の世良田で、徳川氏発祥の地。ドラマのナビゲーターとして登場する徳川家康(1542~1616)を祭神とする、東照宮もある。栄一と家康との距離は遠いようで、実は意外と近い。
2 水戸藩と幕府
慶喜パートには幕末の幕府や水戸藩の主要人物が登場する。史実ではほとんど若き日の栄一と面識が無いが、時代の流れを理解するためにも押さえておきたい。
まず、阿部正弘(1819~57)はペリー来航時の老中首座で、現代で言えば総理大臣。当時の国政は、徳川家の番頭的な譜代大名が中心となり運営する。だが阿部は外様や徳川一門の大名にもアメリカ大統領の国書を示し、開国の是非を問うた。それまで蚊帳の外に置かれて来た大名は活気づき、230もの意見が集まる。広く意見を募り、国の行く末を決めようとしたのだから、この時、日本は一歩近代に駒を進めたと言えよう。さらに阿部は大船建造の禁を解き、江戸湾に台場(大砲を据えるための人工島)を築くなど国防強化に努め、人材を登用したが、心労が重なったのか、39歳で病死した。
なにかにつけ、外国人を「殺せ」と過激に叫ぶのが、慶喜の父で前水戸藩主の徳川斉昭(1800~60)だ。実像もドラマ以上に強烈な個性と、情熱の持ち主だった。
水戸藩は徳川御三家のひとつだが、神の子孫の天皇は、日本はもちろん、世界に君臨するとの神国思想が盛んだ。その領地の多くは太平洋に面していたから、江戸後期になると外敵に対する危機感が高まる。斉昭が唱えた尊王攘夷論(尊攘論)は全国に波及し、幕府打倒の大義名分にもなった。
水戸藩士で儒学者の藤田東湖(1806~55)は、斉昭のブレーンである。激しい尊攘論を唱えたが、時には暴走する斉昭を宥めることもあった。しかし、安政の江戸大地震で圧死。ドラマでは描かれなかったが、老母を助けようと犠牲になったので、その最期は美談となる。東湖没後、斉昭の迷走が始まったとされ、水戸藩は内部分裂を繰り返して多くの人材を失い、明治維新の主流から外れてゆく。
ペリー来航を機に、国政に対し発言力を増した外様の薩摩藩主島津斉彬(1809~58)や一門の越前藩主松平慶永(1828~90)は、次の将軍に慶喜を望む。斉彬は西郷隆盛(1827~77)を、慶永は橋本左内(1834~59)を、それぞれ京都に送り込み、朝廷側の支持を得ようとする。
だが、従来国政を担当して来た彦根藩主井伊直弼(1815~60)ら譜代は、こうした変化を秩序崩壊と見た。幕閣頂点の大老に就任した井伊は、孝明天皇の許可を得ぬまま日米修好通商条約に調印し、将軍後継者を血筋を重視して紀州藩主の徳川家茂に決める。井伊は強面の独裁者との印象が強いが、ドラマでは近年の研究成果を取り入れたのか、小心の凡人が、たまたま絶大な権力を握ったと解釈されており、斬新だ。
天皇は水戸藩と幕府に調印を非難し、幕府改革を求める勅を下す(戊午の密勅)。驚いた井伊は勅を封じ込め、水戸藩を中心とする反対派を弾圧した(安政の大獄)。慶喜も隠居、慎となり、しばらくは表舞台から消える。だが、井伊も万延元年(1860)3月、水戸浪士らに桜田門外で襲撃され、横死。同年8月には、政敵の斉昭も病死する。
こうした内紛は幕府権威を失墜させ、天皇の政治的発言力を高めさせた。
3 慶喜と一橋家
ドラマのもうひとりの主役と言うべきは、徳川慶喜(1837~1913)である。周知のとおり、大政奉還(政権返上)を行った最後の徳川将軍で、77歳まで生きた。
明治の終わり頃、栄一はかつての主君・慶喜の伝記編纂を思い立つ。そこで栄一と歴史学者が、存命だった慶喜から直接話を聞き取る昔夢会(ルビ・せきむかい)を立ち上げた。その成果は栄一著『徳川慶喜公伝』全7冊として、大正7年(1918)に世に出る。
もっとも、将軍職に対する野心の有無、大政奉還を行った真意など、慶喜本人の心中はなお謎の部分が少なくない。そのあたりをドラマでは草なぎ剛が、悟ったようにリアルに演じる。役者自身の人生経験が、投影されているのかも知れない。
慶喜は水戸徳川家に生まれ、一橋徳川家を継いだ。母の実家は、皇族の有栖川家である。言わば天皇と将軍両方のDNDを持っており、それが慶喜の立場を複雑にする。
文久三年(一八六三)一月に上洛後は禁裏(御所)守衛総督などを務め、孝明天皇との間に強い信頼関係を築く。この間、栄一と喜作が召し抱えられたのは、慶喜の政治的重要度が急上昇し、有能な家臣がひとりでも多く必要になったからだ。
しかし慶応2年(1866)12月、慶喜が将軍職に就いたとたん、孝明天皇が崩御。翌3年12月の王政復古の際、新政権から徹底して排除されて憤慨するが、薩摩・長州の陣営に錦旗が翻ると、あっけなく逃げ出す。陰謀と分かっていても、天皇には逆らえなかったのだ。そして明治元年(1868)4月、江戸城を明け渡した後は一切、政治に関与しなかった。趣味は写真で、自転車に乗っていたという維新後の逸話なども、ドラマで見てみたい。
慶喜は孝明天皇に開国の許可を求めるなど、現実的な政治を行った。それを神国思想の信奉者たちは、裏切りと見なす。このため、有能なブレーンである中根長十郎・平岡円四郎・原市之進が、暗殺される。
栄一を慶喜に仕官させた平岡円四郎(1822~64)は、旗本の家に生まれた。旗本の川路聖あきら(1801~68)から、平岡の英邁ぶりを聞かされた藤田東湖の推挙により、慶喜側近となる。復権し、京都での幕府代表となった慶喜の背後で奔走した。
ちなみに川路は九州・日田代官所の役人の子として生まれ、幕臣となり、海防掛としてロシアとの間に和親条約を結ぶ大役を果たす。江戸開城のさい、ピストル自殺を遂げた。従来、時代劇に登場する機会は少ないが、今回は平田満が飄々と演じており新鮮である。
慶喜の異母弟に、徳川昭武(1853~1910)がいる。将軍名代として、慶応3年に渡欧。フランスでナポレオン三世に謁見し、パリ万国博覧会に参加後、諸国を巡回した。帰国後は最後の水戸藩主となり、のちに松戸徳川家を建てる。写真や狩猟など、多趣味な殿様だった。
昭武の使節団に加えられたことが、栄一の目を世界に向けて開かせ、その後の活躍につながる。パリ万博は山田太一脚本の昭和55年(1980)の大河「獅子の時代」でも描かれたが、その時の栄一役は角野卓造で、外見の雰囲気は今回の吉沢亮よりも、実物に近い気がする。
4 明治政府と実業界
渋沢栄一は昭和6年(1931)、92歳まで生きた。ドラマは若き日の栄一にウェイトを置く模様で、4月25日放映回でまだ二十代半ばである。このペースだと、維新後の活躍は、どの程度描かれるのだろうか。もっとも、社長室に座って指示を出したり、会議に出席するような場面ばかりでは、ドラマとして成立し難いことは理解出来る。
もと幕臣の栄一を、明治新政府にとって必要な人材だと見抜き、口説いて大蔵省に出仕させたのは大蔵大輔の大隈重信(1838~1922)だった。維新の「勝者」のひとつ、肥前佐賀の出身である。
このため大隈は、周囲の薩長出身者から非難された。だが、期待どおり栄一は財政や地方行政、殖産興業に至るまで、その基礎作りに昼夜関係なく働く。
大隈は参議、つづいて大蔵卿になったが、国会開設をめぐって薩長勢力と対立し、「明治十四年の政変」で政府より追放された。野に下り、立憲改進党を結成し、東京専門学校(のち早稲田大学)を創立したのは、よく知られる。第二次伊藤博文内閣の外務大臣として政府に復帰して条約改正を進めたが、反対派の右翼に爆弾を投げ付けられ、片足を失った。それでも、自決した右翼の葬儀に仏前を送ったという。のち、総理大臣も務めた。
明治4年(1871)の廃藩置県後、大蔵大輔になった井上馨(1835~1915)は、各省庁と予算をめぐり激しく対立。その上、尾去沢鉱山払い下げで、私腹を肥やしたとの疑惑が浮上する。このため同六年五月、部下だった栄一とともに歳入の方法を批判する建白を出し、辞職してしまった。
長州出身の井上は幕末のころ、イギリス公使館に放火するような急進的な尊攘派だった。しかし、同藩の伊藤博文らとイギリスに密航留学後は、明治の欧化政策を牽引する。明治18年に内閣制度が発足すると、外務大臣や大蔵大臣を務めた。
3年余りの官僚生活を終えた栄一は以後、在野で経済人として活躍し、「日本資本主義の父」とまで称される。第一国立銀行をはじめ約五百の会社を創立、約六百の社会福祉事業に関係。会社の基本は、多くの財を集めて経営する方法で、三菱や三井のような一極集中の財閥にはならなかった。この点、高い志を感じずにはいられない。
近年、明治維新を産業や経済の面で再評価する気運が高まっている。六年前に政府肝入りで、ユネスコの世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」などは、その最たる例。かつては志士・政治家・軍人が評価されたが、栄一がドラマ化され、一万円札の肖像になる時代になった。
ただし美化一辺倒で、急激な産業発達が引き起こした公害、環境破壊からは目をそむけるのはよろしくない。たとえば明治十五年ころ発覚した、政府要人と密着した実業家の古河市兵衛(1932~1903)が経営する足尾銅山(栃木県)の鉱毒問題。利根川支流の渡良瀬川沿岸に、甚大なる被害を及ぼしたため、衆議院議員の田中正造(1841~1913)が激しく抵抗した話は、教科書などでもおなじみだ。
この古河の鉱山経営に、第一国立銀行から多額の資本を提供したのが栄一だった。こうした負の歴史も一緒に描けば、もっと重厚で見応えあるドラマになると思うのだが。
(『週刊文春』2021年5月6・13日合併号)
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