筑前勤王党掃苔録(1)

はじめに―掃苔とは何か―

 いわゆる筑前福岡藩の勤王党に対する大弾圧、慶応元年(一八六五)の「乙丑の獄」は福岡の近代史にいまなお暗い影を落とす。福岡各所には「乙丑の獄」で処刑された人々の墓が、いまなおひっそりと佇む。

 先人の墓を訪ね、苔を掃って香華を手向け、その事績を偲ぶことを「掃苔(そうたい)」と呼ぶ。大正の終わりから昭和初期にかけて、趣味としての掃苔が東京を中心にブームになった。『関八州名墓誌』(大正十五年)『東京掃苔録』(昭和十五年)などが出版され、専門の雑誌まで発刊される。この波が福岡にも飛来したのか、『福岡県碑誌 筑前之部』(昭和四年)が大道学館出版部から出版された。

 『福岡県碑誌』は菊池敏彦校閲、荒井周夫編輯で、墓に限らず当時筑前に存在したあらゆる碑の銘を記録した労作だ。本書の価値の第一は現在、残っていない碑が記録されていることだろう。全一一〇〇ページ余りのうち七〇ページが「勤王篇」に費やされ、その中には「乙丑の獄」殉難者の墓碑銘もいくつか紹介されている。

 私もずいぶんとお世話になった『福岡県碑誌』の志を少しでも継承するつもりで、今回から福岡市内を中心とする幕末関係者の掃苔録を連載させていただこうと思う。令和のはじめの墓碑の現状を記録しておくことも、何らかの意義があると信じている。

鷹取養巴墓

 福岡市博多区御供処町13-6、妙楽寺(臨済宗)の開山堂傍らにあり、自然石に次の銘が刻まれる。ただし細字の事績は摩滅などで読めない部分もあり、『福岡県碑誌』により補った(同書の誤りも数箇所訂正した)。

正面「贈従四位鷹取養巴之墓」

側面・背面「君諱惟寅、稱硯菴、號葵軒、養巴其家稱、舊福岡藩醫官鷹取醉雲翁長子、母鹽川氏、君以文政十一年丁亥正月十三日、生于福岡、爲人慷慨義烈、而懐曠世之恩、夙研究刀圭之術。又脩講經史之業、天保癸卯、襲俸爲醫官、非其志也、居常欲醫療時患之所在、以翼賛藩治●(ム矢)、于時萬延庚申、有櫻田之變也、君之懐抱感時事而愈切焉、君上言於藩主、痛論時弊之所因、其言過激、爲得嫌疑、君與同士海津・月形・浅香等諸子、共幽囚于各地、居三年、放免帰家●(ム矢)、于時文久癸亥八月、京師之變動、禁長藩士之入京、三條以下之七卿、避難於長藩也、君勤王愛國之心情、勃乎奮起、君與其友月形・早川諸士、共嘯集義徒、而將大有所爲焉、世謂之勤王黨、於是藩世子以薩肥筑三藩之聯合上京、周旋公武和合、且圖長藩之宥免、世子歸路奉内勅過長藩、以爲小郡之會合、盖君等義徒與有力也、翌元治甲子七月、長藩之兵、京師之騒戰、幕府發征長之軍旅也、君等義徒拮据挺進、益鼓舞藩論、盡畢世之力、一誠以從事、遂使解征長之兵、迎五卿於藩内大宰府、且以開調停薩長兩藩執隔之緒、將垂成其效、而藩論顛遷、君等一累再被幽屏、踵而下獄、哀哉、君與義士十四士、共刑歿于福岡、是為慶応二(ママ)年乙丑十月二十三日、君行年三十有九、何其慘毒耶、雖然、不數年而君等之遺圖、聳動天下之正氣、志士雲興而賛援之、薩長之聯合整於斯、三條諸公之復官歸洛成於斯、以胚胎明治維新之鴻業●(ム矢)、藩論歸正、藩主築旌忠祠、以祭君等殉難志士之一累、二品親王有栖川宮殿下、賜石心松操之題額、併合祀于靖國神社、果哉、聖朝以特旨贈從四位、實明治三十一年七月四日也、嗚呼君稱首之偉業、千載不朽哉●(ム矢)、君其可瞑也、君娶松原氏、而無子、養山名仙菴翁次子、以妹配之嗣其家、爲之琢磨、今茲嗣子琢磨氏、既營贈位之告祭、又建碑表之、東久世伯其碑銘、使余勒其顛末於碑陰、抑君一世之偉業者、有明治歴史之在、因姑敢叙其慨歴云

 明治三十二年八月

  正六位勲六等嗣子琢磨 建之

  伏敵門下野史 江島茂逸 叙文

         手島宥峰 謹書」

(読み下し)

「君諱は惟寅、硯菴と称し、葵軒と号す。養巴は其の家称なり。旧福岡藩の医官鷹取酔雲翁長子なり。母は塩川氏。君文政十一年丁亥正月十三日を以て、福岡に生まる。人と為り慷慨義烈にして曠世の恩を懐ふ。夙に刀圭の術を研究し、又経史の業を脩講す。天保癸卯、俸を襲ぎ医官と為る。其の志に非ざるなり。居常時患の在る所を医療して、以て藩治を翼賛せむと欲す。

時に万延庚申(元年・一八六〇)、桜田の変あり、君の感を時事に懐抱すること愈切なり。君言を藩主(黒田長溥)に上り、時弊の因る所を痛論す。其の言過激なり、為に嫌疑を得て、君同士海津・月形・浅香等諸子と共に各地に幽囚せらる。居ること三年、放免せられ家に帰る。

時に文久癸亥(三年・一八六三)八月、京師の変動あり、長藩士の入京を禁じ、三条以下の七卿、難を長藩に避くるや、君が勤王愛国の心情勃乎として奮ひ起る。君其の友月形・早川の諸士と共に義徒を嘯集して将に大に為す所あらむとす。世に之を勤王党と謂ふ。是に於て、藩の世子薩肥筑三藩の連合を以て京に上り、公武和合を周旋し、且つ長藩の宥免を図る。世子(黒田長知)帰路内勅を奉じて長藩を過ぎ、以て小郡(現在の山口県山口市)の会合と為る。蓋し君等の義徒与て力あり。翌元治甲子(元年・一八六四)七月、長藩の兵、京師の騒戦あり。幕府征長の軍旅を発するや、君等義徒、拮据挺進、益藩論を鼓舞し、畢世の力を尽し、一誠以て事に従ひ、遂に征長の兵を解かしめ、五卿を藩内の大宰府に迎へ、且つ以て薩長両藩の執隔を調停するの緒を開き、将に其の効を成すに垂とす。而も藩論顛遷して、君等の一累、再び幽屏せられ、踵で獄に下る。哀しい哉。君義士十四士と共に福岡に刑没す。是れ慶応二年乙丑(一八六六)十月二十三日なり。君行年三十有九、何ぞ其れ惨毒なる耶。然りと雖も数年ならずして君等の遺図、天下の正氣聳を動し、志士雲興して之を賛援し、薩長の聯合斯に整ひ、三条諸公の復官帰洛斯に成り、以て明治維新之鴻業を胚胎す。

藩論正に帰し、藩主旌忠祠を築き、以て君等殉難志士の一累を祭り、二品親王有栖川宮殿下、石心松操の題額を賜ひ、併せて靖国神社に合祀せらる。果哉、聖朝特旨を以て従四位を贈りたまふ。実に明治三十一年(一八九八)七月四日なり。嗚呼、君が称首の偉業、千載朽ちず、君其れ瞑すべきなり。君松原氏を娶り、子無し。山名仙菴翁の次子を養ひ、妹を以て之に配し其の家を嗣がしむ。之を琢磨と為す。

今茲嗣子琢磨氏、既に贈位の告祭を営み、又碑を建て之を表す。東久世伯其の碑銘を書し、余をして其の顛末を碑陰に勒せしむ。抑も君が一世の偉業は、明治歴史の在るあり。因て其の慨歴を叙すと云ふ」

 鷹取養巴は明治二十四年九月に靖国神社合祀、三十一年七月に従四位が追贈された。これは、贈位を機に建てられた墓のようである。その事績は福岡士族の史家江島茂逸が撰した碑銘に言い尽くされている感があるので、あらためて述べない。征長軍解散、薩長同盟などが「筑前志士」の功績で、明治維新の基礎となったとの江島の主張が、しっかり盛り込まれている。ただ、なぜか辞世の句が刻まれていない。そのためか墓碑の向かって左側にずっと後年、次の銘を刻む碑が建てられた。

「 鷹取養巴惟寅先生遺句

砂に立松葉するとし初時雨

    進藤一馬書」(表面)

「昭和六十三年十月 鷹取龍生 チヱ建立

  鷹取養巴〈たかとりようは〉惟寅 一八二七~一八六五

 江戸時代後期の医師

 代々筑前福岡藩医 禄高三百七十石 惟寅は十代目

 幕末の福岡藩勤王の志士として国事に奔走したが勤王派弾圧で捕らえられ 慶応元年に処刑された 享年三十九歳」(裏面)

 森政太郎『筑前名家人物志』下(明治四十一年)所収の鷹取の伝記によると、その人柄は「天資寛厚ニシテ善ク衆ヲ容レ、人ト争ハズ亦勤王家ノ領袖タリ」とある。勤王党は藩主に意見したり、抗議したりとクセ者揃いの観があるが、鷹取は温厚な人物だったらしい。しかし藩内訌の際、「屹然トシテ初志ヲ変セス、是レガ為メニ当路ノ執政ニ忌ミ嫉マレ」て処刑されたという。土佐浪士中岡慎太郎の日記にもその名が見え、五卿西渡に尽力していたことがうかがえる。

 やがて政権交代が実現して「明治」になると、幕府に抗する政治運動に身を投じた者たちの評価は一転した。「志士」と呼ばれ、不幸にも斃れた者たちは「殉難者」として顕彰されるようになる。

 大衆もまた新政権樹立の功労者である「志士」に関心を寄せ、関連書籍が相次いで出版された。「志士」の略歴や詩歌を肖像とともに紹介した百人一首スタイルの列伝が、明治十年前後に数種類出版されている。

 そのひとつ、轉々堂藍泉編『近世報国百人一首』(明治八年)には、鷹取養巴はじめ筑前福岡関係の「志士」が九名も含まれている。なんと全体の一割近くである。一方、現代ならベスト一〇〇に必ず入るであろう坂本龍馬や高杉晋作の名は無い。

 その原因の第一は、当時はまだ「明治維新」の一定の評価が定まっていなかったからだろう。「殉難者」に対する贈位や靖国合祀が始まるのは、もう少し後のことである。

 そんな中で『近世報国百人一首』の編者が、筑前勤王党の功績を高く評価していたことは確かである。養巴以外の「筑前志士」は吉田正実・月形弘・望東尼・野村定省・平野国臣・建部武彦・大神繁興・万代常徳を紹介している。だが、この人選も現代からするとやや首をかしげたくなる。加藤司書や月形洗蔵、中村円太などは入っていない。

 養巴の屋敷跡は現在の福岡市中央区大名一、二丁目あたりで、付近には「養巴」の名を付けたビルや幼稚園がある。また、何代目の養巴なのかは分からないが、厠に出没して悪戯をするカッパを懲らしめ、カッパから外科医術の知識を得たとの伝説も残る。

筑前勤王党掃苔録(2)

伊丹真一郎墓

 福岡市博多区御供所町13―6、妙楽寺(臨済宗)本堂北側にあり、自然石の正面に次の銘が刻まれる。

「贈従五位伊丹真一郎墓

    川口伊丹合葬之墓」

 裏面には八行で「川口鐡太郎謹誌」による川口・伊丹家の歴史、伊丹真一郎重本の事績などが刻まれているが、摩滅が進み全文の判読が困難になっている。正確に活字にする自信がないので、以下要約を交えて紹介する。

 川口氏の初代勝正は左近太夫と称したが、大坂陣後、黒田長政に仕える。二代重真が島原で戦功を立てて禄を厚くされ、四代の時にその母の家の姓である伊丹となった。

 つづいて銘文は真一郎につき「十代重本、通称真一郎、号約堂、九代重遠之嫡子也、慶應元年以唱勤王論筑藩議刑死、于年三十一●(ム矢)、明治三十五年依特旨賜贈正五位」とある。その後、川口姓に復し、大正二年(一九一三)六月にこの合葬墓を建立したという。

 真一郎の父三十郎重遠は博聞強記で書を能くし、詩賦に巧みだった。かつて水戸の徳川光圀が摂津湊川に楠木正成の墓碑を建てたことに影響され、同志数名と天保初年(一八三〇年代)、早良郡七隈村にある南朝の遺臣菊池武時の遺跡に一碑を建てて顕彰したという(『新訂黒田家譜・六』昭和五十八年)。後期水戸学の信奉者だったようで、真一郎の家庭環境の一環が偲ばれる。

 森政太郎『筑前名家人物誌』下(明治四十一年)によると、真一郎は豪放で、強固な意志の持ち主だったようだ。ある時、真一郎が「武士のたけき心や火取虫」と詠じると、父は「汝は犬死をするぞ」と訓戒したという。万延元年(一八六〇)二月、家督(馬廻組)を継いだ。同年三月、桜田門外で大老井伊直弼が暗殺されるや、福岡藩も活気づく。真一郎も同志とともに内では藩政改革を促し、外では薩摩藩を頼り尊攘運動を進めようとした。このため文久元年(一八六一)五月、嫌疑を蒙り、禄を削られ、退隠閉門となる。同三年、中央政局において急進的な尊攘派が台頭するや月形洗蔵・鷹取養巴らと共に罪を除かれ、禄を還された。

 その後、征長軍解兵、五卿西渡などで活躍。江島茂逸『高杉晋作伝入筑始末』(明治二十六年)によれば江上栄之進・今中作兵衛とともに、福岡に亡命して来た長州の高杉晋作を肥前田代(現在の鳥栖市)まで護送している。特に、五卿の関東押送という幕府の命を薩摩藩の有志と謀議して拒んだため、藩内の佐幕派に睨まれて大宰府から福岡に召還されてしまう。そして「乙丑の獄」で同志とともに捕縛、投獄された。

 藩の実権を握った佐幕派は真一郎を重要視したので、厳しい拷問を受けた。『筑前名家人物誌』には「拷問酷烈ヲ極ム、為メニ臀肉砕裂、鮮血淋漓タリト雖モ口ヲ噤シテ瞑目亦一言ヲ発セズ」とある。慶応元年(一八六五)十月二十三日、三十一歳で斬に処された。

 処刑方法は月形・鷹取らは斬首だったが、真一郎のみ大袈裟で斬られた。やはり『筑前名家人物誌』には「死刑中大袈裟ヲ以テ最極刑トナス。真一郎ガ佐幕党ノ為メニ厭忌セラルゝノ甚シキヲ知ルベシ」とある。

 明治二十四年九月に靖国合祀、同三十五年十一月に正五位を追贈された。

森 勤作墓

 伊丹真一郎墓と同じく妙楽寺本堂の北側に建つ自然石の墓碑で、次の銘を刻む。

〔表面〕

「贈正五位森勤作之墓」

〔裏面〕

「君諱通寧慶應元年十月二十三日、行年三十五、明治三十五年十一月八日贈位」

 『筑前名家人物誌』によれば字は子静、幼名は耕之助または圭一。福岡藩士吉田兵太夫の子で、森専蔵の養子となり家を継ぐ。人となりは「剛直ニシテ諂諛(媚び諂うこと)ヲ好マズ、権貴ノ人ニ対スレドモ己ガ志ヲ述ベテ毫モ屈撓ノ色ナシ」とあるが、「乙丑の獄」で処刑された者たちは、どうもこうした一徹タイプが多いようだ。

 幼少より学問を好み、月形洗蔵の門で熱心に兵法を研究する。藩に出仕して納戸役を任されたが、程なく罷めさせられたというのは、その性格によるものか。元治元年(一八六四)十一月には江上栄之進とともに藩命を受け、征長軍解兵のため遠賀郡芦屋の薩摩軍陣営はじめ諸藩の陣営を説いてまわったことが史料からうかがえる。

 慶応元年、対馬藩の内訌を調停すべく、藩命を受けて尾崎総左衛門らと対馬に渡り、薩長の藩士とともに奔走した。ところが周旋中に福岡で「乙丑の獄」が起こり、勤作も帰国を命じられる。薩長の藩士は「同志ノ徒既ニ囹圄(獄舎)ノ中ニアリ、貴殿国ニ帰リナハ拘レノ身トナランコト必定タリシカズ、薩長二国ノ間ニ走リテ禍ヲ免レ、時ヲ待チ給ハンニハ」と勧めたが、勤作は「主命ヲ蒙リテ其事ヲ果サズ、他邦ニ身ヲ遁レ匿ルヽハ臣タルノ道ニ非ズ。唯運ヲ天ニ任セテ帰国スベシ」として応じなかった。

 こうして帰国した勤作は、ただちに屏門を命じられ、十月には下獄して同月二十三日、他の同志とともに斬罪に処された。

 明治二十四年九月に靖国合祀、同三十五年十一月に正五位を追贈された。

    (『西日本文化』497・498号。2021年) 

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