晋作、最後の帰省

晋作、最後の帰萩

       一坂太郎

(1)

 慶応年間、高杉晋作の活躍の舞台のほとんどは、長州下関(馬関・赤間関)だった。慶応元年(一八六六)十一月には、馬関越荷方への勤務を命ぜられたりもする。長州藩は再び攻め寄せるであろう征長軍に備え、晋作を下関に配した。そして同三年四月十三日、下関で不帰の人となる。

 この間、晋作は萩に帰省することがあったのだろうか。下関市街から萩城下までは、片道八〇キロメートルくらい、現代なら自動車で二時間ほど。だが、赤間関街道を歩いたら、一日では難しい距離だろう。

 晋作が慶応二年の正月を下関で迎えたことは、確かだ。前年末の詩に「赤馬関頭又送年」、元旦の詩に「父母妻児皆在家 迎春只独滞天涯」とある。その後、一月八日には木戸孝允を、十日には坂本龍馬を、「薩長同盟」締結のため、下関から海路上方に送り出した。

 「正月廿三日夜半」と記された奇兵隊軍監山県狂介(有朋)あての晋作書簡を、徳富猪一郎『公爵山県有朋伝・上』は慶応二年のものと推定する。ならば龍馬を見送り、二週間ほど後に書かれたものだ。その中に、次のような記述がある。

「舟にて廿一日に●(ここ)元へ著きつかまつり候。田舎親父が御城下に入り込み候気味にて、間は随分悪しくござ候。御遥察下さるべく候。明後日より萩行きつかまつり候。両三日は滞在つかまつり候間、老台も御出浮成され候様祈り奉り候。余る話もござ候得ば、四谷で逢いし其の時と」

 晋作は下関から海路小郡あたりまで行き、藩庁のある山口の「御城下」に入ったのだろうか。それから二十五日に萩へ赴き、三日間滞在する予定だと述べている。そこへ山県も来るよう、誘った。

(2)

 晋作が帰省した時、もう一人の奇兵隊軍監である福田侠平が萩滞在中だった。『奇兵隊日記』一月十九日の条には、福田が「帰省」したとある。萩に、福田の住居か定宿があったのかも知れない。

 福田を訪ねた晋作は「萩城に游び、悠々道人(福田)を訪う、席上即吟」の題で、「東国形情未可謀 潜身唯待起兵秋 俗人不識佯狂志 内患却多於外患」の七絶を作った。この帰省中、晋作が作った唯一の詩である。

 晋作に帰省を促された当時、山県は厚狭郡吉田村(現在の下関市吉田町)の奇兵隊陣営に在った。晋作の誘いには、応じられなかったようだ。しかし、晋作のもとへ荷物と共に返信を送ったことは、一月三十日、晋作が再び山県に発した書簡冒頭に「拝読奉り候。早速遣い差し出し候覚悟に罷り在り候ところ、態と御持たせ下され千万恐れ入り奉り候」とあることから察せられる。晋作の予定通りなら、下関に戻って書いた書簡ということになる。

 もっとも、二月三日、晋作は西市(現在の下関市豊田町)の庄屋中野半左衛門宅に泊まったことが分かっている(中野日記)。これが、萩から下関に戻る途中だとすれば、晋作の萩滞在は当初の予定より延長された可能性もある。

 同じ書簡で晋作は「久しぶりの帰省、双親(両親)の白髪を見候ては、気魄も衰えしばかりにござ候」と、弱音を吐く。そして「帰陣日限も拝面の上、御相談に及ぶべく候。何卒御苦労乍ら寸渡御来臨祈る所にござ候」と、山県と話したいので来て欲しいと頼む。「帰陣日限」を「御相談」とは、何のことだろう。あるいは征長軍との開戦を控え、晋作が陣営入りするタイミングの打ち合わせだったのかも知れない。

 その後、『奇兵隊日記』二月四日の条に「山県狂介萩・山口行之事」の記述が見えるが、晋作はすでに萩にはいない。こうして見ると、山県にも萩や山口に行かねばならない用件があったようである。

 時期から見て、晋作の帰省は長州再征に関係するのではと推測するが、具体的には分からない。梅溪昇『高杉晋作』には「おそらく、両親からの願い出により下関在勤中家族と同居の許可が下り、その準備や、あとに残る両親の世話を手配したものと思われる」とある。

 家族に下関で晋作と同居するよう沙汰が出たのは、一月二十三日のことだった。もっとも家族の来関はもう少し前から内定しており、一月十四日、晋作が下関竹崎の商人白石正一郎にあてた書簡に「愚妻も今以て出関つかまつらず候。孰れ今月末か来月初旬にも相成り候かと相考え候」とある。

 帰省した際、家族から下関で共に暮らす愛人うのにつき尋ねられた晋作は、「あれは、敵の目をくらますために連れている」と言い訳したとの逸話が、高杉家に伝わる(高杉勝氏談)。あるいは、この帰省時のことかも知れない。

 そして二月二十三日、晋作の母、妻、子が下関に来る。あれこれあって、困窮した晋作は藩政府の木戸孝允に泣きつき、薩摩出張を命じてもらい、三月二十一日、海路長崎へと向かう。

(4)

 それから半年後にも、晋作は山口を経て三日ほど萩に帰っている。これが最後の帰省になったが、従来の晋作伝にはほとんど触れられていない。同じ頃、山県狂介も萩に帰っており、つかの間交遊した様子もうかがえる。

 六月二日と見られる山県あて晋作書簡(『久坂玄瑞史料』所収「『高杉晋作史料』補遺』」)には「昨日の御来杖」を謝し、「いよいよ明日より発程の覚悟にござ候間、其の御含みにて御出浮待ち奉り候」とある。また、晋作の父が山県に、息子が世話になっているからと、「軽少之金」を贈るので、受け取って欲しいとも言う。萩における山県の居所は「川島土手今津源之丞方」となっている。

 ふたりは六月一日に菊屋横町の高杉家で会い、三日に共に萩を発ち、おそらくは山口を経由して下関に戻ったと考えられる。晋作が最後に瞼に焼き付けたであろう故郷の風景は六月初旬、太陽暦なら七月上旬ということになる。

 すでに五月二十九日、幕府は長州藩の歎願書すべてを突き返したため、開戦は時間の問題になっていた。奇兵隊も吉田村から一宮に陣を移し、九州方面の征長軍に備えるなど慌ただしい。

 六月五日、藩政府の木戸にあてた晋作の書簡には「弟事は久しぶりに帰省、少々は内用出来つかまつり候。やむをえず両三日滞在つかまつり候。左様御承知下さるべく候様願い奉り候」とある。「内用」というから、帰省は私的な事情だったのかも知れない。海軍惣督を正式に命じられた六月七日、親友の前原彦太郎(一誠)にあてた書簡で晋作は、自分は山口にいる旨を記す。

 一方、山県は『奇兵隊日記』六月六日の条に「帰陣」したとあるから、山口からは晋作とは別行動で、一宮の奇兵隊陣営に帰ったようだ。

 小倉口の戦いの火ぶたが切って落とされたのは、六月十七日早朝だった。晋作や山県は奇兵隊などを指揮して征長軍と戦う。八月一日には征長軍の本拠小倉城が炎上し、九月には休戦となる。だが、晋作は八月頃から結核が悪化し、下関で床に伏すようになった。

 十一月二十四日、晋作は萩にいる父小忠太あて書簡で「来春早々帰省の覚悟」と知らせるが、それは果たせぬ夢となる。十二月二十四日、父あて書簡には「半七郎事、承知つかまつり候」とあるが、これは村上半七郎(のち高杉春祺)を、高杉家の婿養子として迎える件を承知したとの意味である。六月の帰省は、この婿養子に関する「内用」だったのかも知れない。

 そして翌三年四月十三日、晋作は下関新地の林家離れにおいて、故郷への思いを抱きながら、二十九歳で他界した。

(「晋作ノート」52号、2021年5月)



春風文庫

~ 一坂太郎のホームページへようこそ。~

0コメント

  • 1000 / 1000