木戸孝允の診察書など


 木戸孝允(一八三三~七七)は幕末、長州藩の尊攘・討幕運動を牽引し、明治政府の高官となり、廃藩置県を推進するなど近代国家建設に尽くす。だが体調がすぐれず、明治九年(一八七六)三月には参議を免ぜられて内閣顧問となり、六月には奥羽巡幸に供奉し、八月に宮内省出仕となった。翌十年一月、西国巡幸に供奉し、京都に到着するや発病する。さらに二月には九州で西南戦争が勃発し、心痛も重なった。四月下旬になると胸痛はひどくなり、死を意識するようになる。死んだら、かつての同志が眠る東山霊山に埋葬して欲しいなどと言う。こうして五月二十六日、京都の自宅において四十五歳の生涯を閉じた。

 本稿で解説を付して紹介するのは筆者が令和二年(二〇二〇)七月、東京の古書肆で求めた史料一括である。全部で十一紙あるが、一通が複数枚に分かれた電報もあるから計六点だ。木戸が京都で病没する直前の関係史料が主で、宛名から見て東京にいる元老院議官宍戸●(たまき)のもとに届けられた情報と考えられる。史料が市場に流出した経緯などは分からない。長州藩出身の宍戸は幕末から木戸と苦楽を共にして来た間柄だった。木戸の死は政府内、特に長州人たちにとり大変な衝撃だったことが、これらの史料から垣間見ることが出来る。

 なお、電報の句読点は原本のままとした。その他、書簡、診察書などの句読点は筆者が加えたものである。

①電報 明治十年三月五日

丁丑三月五日朝到来分

ベツシサンジヨウダジヨウダイジンヨリイワクラウダイジンヱノシヨウシンイタシソロ。サクゴゴジウジニジツフンフクヲカ。ハツ。カワムラヨリノホウニイワクコンヨツカ。ゴゴサノトウリミナミノセキミヨシシヨウシヨウヨリ。□(虫食い)

其二

ウチアリ。サクジツ。ゴゼンロクジヨリダイシンゲキソウホウゲキセンノ。ノチ。カングンシヨウリ。ツイニ。タハラヤマノウヱマデ。ススミ。シシヨウモ。スクナシ。ヤマガノ。ゾクハ。イキヲイシヨウケツナレドモ。ヲイヲイ。ミナミノセキヨリシヨ

其三

ヘイ。ヲクリコミ。チウヤゲキセン。イツレモ。ウエキヲノリトルサクリヤクナリヤマカタヲヲヤマノナタカセノセンチヲジユンシス。タハラヤマヨリクマモトマデハサンリヨナレバ。ミヨウニチワ。カナラズ。クマモトジヨウト。コウツウノ

其四

ミチヲ。ヒラクベシ。ゴアンシンクダサレタクコノダントリアヱズジヨウシンス

【解説】最初に「丁丑三月五日朝到来より」とメモ書きのある四紙から成る電報だが、本文以外は切除されているので、発信人・受取人は不明である。内容は福岡より政府に届いた西南戦争の戦況報告で、これのみ木戸孝允とは直接関係無い。田原坂の薩軍を政府軍が撃退し、熊本城への道が開かれたとある。

②杉孫七郎電報 宍戸●(たまき)あて 明治十年五月五日

明治十年送達紙

発局

官報 第百〇五号 西京分局 五月五日 午後七時〇分 字数二百十四字

着局

第九号 「四谷電信分局印」 五月五日

技術 栗田

届 宍戸●(たまき)殿   出 西京 杉宮内少輔

キドコモン。ビヨウキニツキ。カナイ。カンビヨウトシテ。キタルコト。トウニンハ。フシヨウチノヲモムキ。コンニチノデンシン。ゴシヨウチナルベシ。ソノゴ。イトウサンギマキムラト。ダンジタルニ。ナニブン。カンビヨウトドキカヌユヘ。カナイ

其二

ノ。ココロヘナテ。シキユウ。フナビンニテ。ヲシテキタルヨウニ。ヲシトラハカライタノム。モツトモ。ココモトヨリ。サイソク。イタシタル。ワケニ。アイナラザルヨウニ。ゴチユウイ。アリタシ。コンニチノ。ヨウダイハ。サクジツヨリ。ヲヲイニヨロシ

其三

カクベツ。ゴケンネンニヲヨバズ。

【解説】全三紙から成る。宮内少輔杉孫七郎は在京都、元老院議官宍戸●は在東京。五月二日には太政大臣三条実美の命により、東京から参議兼工部卿の伊藤博文が木戸のもとへ馳せ参じた。伊藤は長州出身の京都府知事槙村正直などとも話し合い、東京にいる木戸の妻松子を京都へ呼び寄せようとする。これにつき木戸は「節角御懇切に松之事も被仰下候得共、不遠帰京仕候事に至り候歟とも相考へ申候間、往来騒動にも御坐候間、先見合せ候様に御願仕候」(五月一日、山尾庸三あて木戸書簡、『木戸孝允文書』七巻四二八頁)などと遠慮していたが、そうも言っていられない症状になった。そこで宮内大輔の杉が、松子に至急船便で京都に来て欲しいと宍戸に依頼した電報である。また、木戸の意向に配慮し、自分らが催促したようにならぬよう頼む。松子は翌五月六日に東京発、十日に京都着。「人力車を乗りついで」来たというが(松尾正人『木戸孝允』二二四頁)、松子の体力のことなど考えると、電報にある「船便」の方が妥当ではないか。『松菊木戸公伝』下巻(以下『松菊』と略す)によると翌十一日、杉は木戸の近親者「嗣子正次郎・姪来原彦太郎・家従藤井弥十郎等」も京都に来るよう、宍戸らに頼んだ(二一〇三頁)。ただし、木戸が維新以来書き続けて来た日記の筆は五月六日をもち止まっているため、このあたりの心情を本人の言葉で知ることは出来ない(『木戸孝允日記』三巻、以下『日記』と略称)。

③児玉愛二郎書簡 宍戸たまきあて 明治十年五月九日

木戸病気今朝電信ヲ以杉迄〔虫食い〕候処、別紙写之通電報有之候間、此段及御通知候也。

  五月九日           児玉宮内権大丞

   宍戸議官殿

【解説】児玉が東京から木戸の症状につき、電信で杉に尋ねたところ、「別紙」のような電報が来たので宍戸に知らせるという。

④杉孫七郎電報 宍戸たまき・児玉愛二郎あて 明治十年十月十三日

明治十年送達紙

発局

官報 第五十二号 西京局 五月十三日 午後一時五分 字数十六字

着局

第十六号 「太政官電信分局印」 五月十三日

技術 速水

届 宍戸議官殿・児玉権大丞殿

出 杉宮内少輔

デンシンシヨウチヨウダイドウヨウ

【解説】杉は在京都、宍戸・児玉は在東京。宍戸らから杉のもとに届いた電報については不詳。五月十九日、明治天皇は親しく病室の木戸を慰問し、勅語を与えた。恐懼して起座し、首を擡げる木戸を介助したのは杉だった。この日、木戸は杉に「早ク白雲ニ乗ジテ去ラントス」と告げる。杉は「哀憫悲痛に堪へずして暗涙に咽び、之を安慰して深憂するならしむ」だった(『松菊』二一〇四頁)。長州出身の杉も幕末から、木戸と苦楽を共にして来た仲である。関西行幸に供奉し、奇しくも身近で木戸の世話をし、その症状を東京などに知らせる役を担った。

⑤伊藤博文電報(写) 山尾庸三あて 明治十年五月十五日

 五月〔虫食い〕西京ヨリ電報十五日午前木戸留守〔 〕知

キド。ビヤウキ□(虫食い)タダイマ。ドイツノ。イシヤヱ。チンサツイタ□(虫食い)セ。□(虫食い)トコロ。ヨウダイハ。タイカイ。イトウ。ソノタ。ニホンイシヤノ。ミコミト。カワルコトナシ。カクコン。スコシ。ココロヨキ。ホウナレドモ。ビ□(虫食い)ウンヤウク。ハナハダ。ナニヂウナリ。ガンコウエ。コノヲモムキヲ。ツウシ。クダサルベシ。

  山尾大輔殿       伊藤卿

【解説】伊藤は在京都、山尾は在東京。木戸の容体は悪化するばかりなので五月十日、伊藤らは相談の上、文部省雇ドイツ人医師ウィルヘルム・シュルツェを東京から呼んで診断させたが、結果は侍医伊東方成らの見立てと同じだった。伊藤はその旨を右大臣岩倉具視(岩公)に知らせるよう、山尾に指示する。『松菊』の「時に博文等公の病日に加はるを憂ひ、相謀りて独逸の医師シユルツをして診察せしむ、十五日シユルツまた来診す、其診る所、方成等と異ならずして平癒の期しがたきを言ふ、是に於て博文大に憂慮し、直に状を工部大輔山尾庸三に報じ、且つ具視に之を通ぜしむ」(二一〇三頁)の記述に符節する。つづいて『松菊』には二十日、木戸は山尾を東京より急ぎ呼び寄せ、「再び起ちがたきを言ひ、後事を嘱す」(二一〇四頁)とある。

⑥診察書

木戸顧問容体

前症同様之衰弱悄々増進シ、大便一昼夜間六七回より十二回ニ至ル。多クハ膿血ヲ交ユ。時ニ下血アリ。夜中煩悶殊ニ甚シク、肝部ノ腫張ハ弥増大シ、全ク熱ナシト雖トモ百三十度ヲ越ユルニ至ル、是衰弱ニ因ルナラン、牛乳又ハ他ノ滋養ヲ食スルコト相応多シト雖ドモ、甚クハ操煩渇ノ力ニシテ真ノ食気アラサル可シ、依テ消化モ十分ナラス、右ニ付昨今最モ衰弱甚シク、遂ニ危険ニ進ミ不容易容体ニ付、何時急変アルモ斗リカタク候儀と診察致候。

  十年五月廿一日午前十一時三十分

              伊 東

              池 田

              岩 佐

【解説】宮内省罫紙一枚に書かれた侍医伊東方成・池田謙斎・岩佐純連名による「木戸顧問容体」の診察書だが、筆跡は誰のものか現時点では未確認。『松菊』の「翌日方成・淳等診察して急変からんとを憂慮し、之を孫七郎・庸三等に告げて注意せしむ」(二一〇四頁以下)の記述に符節する。侍医池田は西南戦争の戦地より召還され、伊東・岩佐に合流して木戸を診た(『明治天皇紀』四巻一九〇頁)。山田顕義あて山県有朋(いずれも長州出身で、当時は九州の戦場に在った)書簡によれば、池田の京都着は五月十九日である(『山田伯爵家文書』一巻二〇八頁)。同書簡から、杉は京都から木戸の症状を山県に電報で知らせていたことも分かる。危篤は二十五日に伝えられ、二十六日午前六時、木戸は四十五歳の生涯を閉じた。天皇は二十八日、勅を出してその偉勲を賞し、正二位を贈って、祭粢料金五千円を与えた(『明治天皇紀』四巻一九〇頁)。

木戸の死因について

 詳細な『松菊』だが、なぜか木戸の死因について具体的に言及しない。木戸本人はリューマチと思っていたようで、たとえば明治十年四月四日、岩倉具視あて書簡でも「孝允も当年はリヨウマチスにて意外に難渋仕り候。さりながら且々日勤仕り候に付、憚りながら御放慮仰奉候」(『木戸孝允文書』七巻三八七頁)などと知らせている。

 もっとも現在では、胃癌説が定説になっていると言っていい。たとえば松尾正人『木戸孝允』には「木戸自身はリューマチと思っていたようだが、実際は胃癌であった」(二二三頁)とある。その根拠はドイツ人医師シュルツェが「難治の胃病」と診たこと、『東京日日新聞』の「病質は胃中に腫物のごときものを生せし」の記述である。このように胃癌説は、当時から存在した。『明治天皇紀』はシュルツェの「極めて難治の胃病なり、服薬は卻りて激動を来すの恐れあるにより、滋養物を取りて治すの外なし」との診断を死因として紹介する(四巻一九〇頁)。だが、伊東らの診察には触れない。長州出身の軍人政治家三浦梧楼は後年、木戸から貰った明治十年四月二十四日付書簡を示して「其紙尾に胸痛にて難儀いたし居るとの事が附記してあるが、全く胃癌にて死去したのである」と断言する(『観樹将軍回顧録』一二二頁)。『明治天皇紀』を編纂した宮内省の「臨時帝室編纂局」は三浦と交流があったから(『観樹将軍回顧録』一三四頁)、あるいは三浦はここから「胃癌」の情報を得たのかも知れない。ドイツ医師、『明治天皇紀』といった「権威」が「胃癌」と断定したのが、定説化した一因だろう。

 このため私もかつて木戸の小伝執筆時は、「胃癌」と信じて疑わなかった。だが今回、侍医三人による診察書を読むと「肝臓」の肥大や激しい下痢は記されているものの、「胃」には触れておらず、門外漢ながら違和感を覚えた。

 この点に関してかねてから異論を呈しているのが、医師でもあり『小説・木戸孝允』全二冊の著者でもある中尾實信氏である。中尾氏は『小説・木戸孝允』の中で『日記』などから木戸の症状を丁寧に分析し、「おそらく消化器癌の症状と考えられ、二月には転移による胸痛に苦しめられ、気がついたときには末期の症状だった」(下巻八四六頁)、「長期の下痢症状などから推察すれば、大腸癌の転移による末期症状とも考えられる」(下巻八四七頁)などと述べている。

 そこで中尾氏に、診察書を見ていただいた。次に読売新聞西部本社文化部(当時)丸茂克浩氏の協力を得て、私の文責で中尾氏の見解をまとめておく。

 木戸の死因は、大腸癌の肝臓転移の可能性が高い。『日記』明治九年九月五日の条には「昨夜三度の腹瀉にて疲労せり。過日来の不快速に快復せず甚困却せり」(三巻四〇九頁)、九月二十六日の条には「腹瀉未全治、已に四十日に至る」(三巻四一九頁)などとあるように、少なくとも没する半年余り前から下痢に悩まされていた。これは大腸癌によるもので、肝臓に転移したと考えられる(胃にも転移した可能性は否定出来ないが)。診察書には肝臓の膨張が記されているが、大腸癌は肝臓に転移し易い。一方、肝臓癌が大腸に転移するケースは考え難い。胃と肝臓は近いので、レントゲンも無い時代、胃癌説が生じたのかもしれない。さらに転移し、『日記』や書簡にある「胸痛」を引き起こしたのではないか。

 『日記』によれば明治十年四月に入って伊東は十三日、十六日、二十四日、二十五日、三十日、五月一日に来診している。他に高橋正純が四月十八日、岩佐純が四月三十日に来診している。一度診ただけのドイツ人医師よりも、以前から診て来た侍医たちの報告の方が信憑性が高く、大腸癌の肝臓癌転移と見るのが最も合理的で、妥当ではないか。木戸ほどの大物政治家だから、診察書は他にも作られただろう。それらが現存しているか、現時点で私には分からない。さまざまな分野が成果を持ち寄り、新たな側面が照らし出されることを期待したい。

参考文献

『観樹将軍回顧録』 小谷保太郎編 大正十四年 政教社

『木戸孝允文書』七 日本史籍協会編刊 昭和六年

『木戸孝允日記』三 日本史籍協会編刊 昭和八年

『明治天皇紀』四 宮内省編 昭和四十五年 吉川弘文館

『山田伯爵家文書』一 日本大学編刊 平成三年

『木戸孝允』 松尾正人 平成十九年 吉川弘文館

『小説・木戸孝允』下 中尾實信 平成三十年 鳥影社

    (『萩博物館調査研究報告 第16号』2020年3月)

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