なぜ、晋作の江戸行きは忘れられたのか

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 平成22年(2010)11月に77歳で亡くなった晋作曾孫の高杉勝さんから直接聞いた話だが、昭和30年代後半、東京の高杉家に、関西のある大学教授が史料調査のため訪れたことがある。応対したのは勝さんの母はるさん(晋作の孫春太郎夫人)だった。その時、教授は一点の史料をどうしても貸して欲しいと懇願して持ち帰り、以来返してくれないのだという。また、京都の松茸を送ると約束していたが、送ってくれなかったと、はるさんはこぼしていたらしい。

 実はいまから二十数年前、私はこの教授に会う機会があった。高杉家が貸したという史料につき恐る恐る尋ねたところ、あっけなく「まだ、貸りています」と認めたので、拍子抜けしてしまった(後日、勝さんにその旨を伝えた)。それどころか、その史料のコピーを示され、所見を求められた。

 史料とは「楽只堂版」の罫紙一枚に雑然と書かれた、履歴書のようなものの下書きである。内容は幼少期から奇兵隊を結成するまでの高杉晋作の履歴であることは、すぐに分かった。筆跡も晋作のそれによく似ていた。役職に就く際、履歴書を提出する必要があり、作ったものと思われる。

 だが、晋作がみずから書いたとするにはいくつか疑問点もあった。第一は、数箇所にわたり年齢を間違えていること。たとえば二十二歳の結婚は「廿一」、24歳の上海渡航は「廿三」、25歳の奇兵隊結成は「廿六」になっている。あるいは既刊のどの晋作伝にも見えない、次の記述があったことである。

「十五歳、父に従い東行、読書教場中にて修行、一日『武学拾粋』を読んで感じ、右本を自ら写し取って苦読せしかと思ふ。

 16歳、祖父の命によつて国に帰る…」

 この記述を信じるなら15歳の晋作は父小忠太に従い江戸に行き、16歳で祖父又兵衛の命により萩に帰郷したことになる。そんな話は聞いたこともなかったから、私も素直に晋作が書いたとは思えなかった。

 その教授も山口県の関係者などに協力してもらい、山口県文書館を中心にずいぶんと調べたらしいが、15歳の晋作の江戸行きを裏付ける史料は見当たらないと言っていた。それにしても、早々に返却されていれば高杉家史料を収めた堀哲三郎編『高杉晋作全集』(昭和49年)に収録された可能性は高いだけに、残念である。近年教授は亡くなったが、史料の行方を私は知らない。

(2)

 だが、結論から言えば晋作の江戸行きを裏付ける史料は山口県文書館毛利家文庫の中に存在していた。

 まず、嘉永6年(1853)12月14日に発せられた、江戸行きの次の沙汰である。

「    又兵衛嫡孫 高杉晋作

右又兵衛伜小忠太より来春御番手のため江戸差し登らされ候につき、嫡孫晋作義、心添見習」(両公伝史料『役目進退録』)

 これで晋作が江戸に行ったことは、疑う余地がほぼ無くなった。

 次は『部寄』の中にある安政元年(1854)2月26日、晋作を含む十一名に発せられた「御屋舖内風呂入湯願いの如く差し免され候事」の沙汰である。これは江戸の藩邸の、風呂の使用を認めたものだろう。

 こうして見ると晋作は安政元年1月15日に萩を発ち、2月16日に江戸に到着した若殿毛利ろくの尉の行列に従ったようだ。ならば履歴書の「十五歳」では無く「十六歳」のはずだが、先述のとおり年齢の間違いが多いので、あまり気にならない。晋作が祖父又兵衛の「嫡孫」になっているのは、小忠太がまだ家督を相続していなかったためである。

 小忠太は長井雅楽とともに、ろくの尉の教育掛を務めていた。だから江戸行きの「番手(警護役)」に選ばれた際、その列へ息子晋作を加えたのだろう。幼少の頃から晋作は、同じ天保10年(1839)生まれのろくの尉の遊び相手のような存在だったらしい。

 ろくの尉が江戸に行くのは将軍徳川家定を烏帽子親とし、元服の儀式を行うためだ。これによりろくの尉は長州藩世子として公認され、家定から偏諱を得て「定広」と改名した。ちなみに後年、「禁門の変」で朝敵となったため偏諱は没収され、定広は広封になる。

 晋作の江戸滞在中、特筆すべき出来事は「ペリー再来」だろう。嘉永6年6月3日、江戸湾浦賀沖に来航したペリー提督率いる四隻から成るアメリカ艦隊は幕府に国書を示して開国を迫り、一旦去った。そして安政元年(1854)1月、七隻の艦隊で再来し、幕府と交渉のすえ、3月3日に日米和親条約が締結される。

 この間、戦争が起こるとの風説もあり、江戸は大混乱に陥ったが、そうした中に16歳の晋作はくしくも飛び込み、黒船艦隊を目の当たりにした。艦隊の中にはアメリカ最大級、排水量3800トン余りのポーハタンも含まれている。晋作は日本に迫る外圧を、痛感したに違いない。武士の百科事典とも言うべき『武学拾粋』(この書籍については別の機会に触れたい)を苦労して読んだというのも、黒船ショックによるものだろう。

(3)

 ペリー再来という未曾有の国難をリアルタイムで体験した史実は、晋作のその後の人生を考える上で大きな意味を持つ。危険視されていた吉田松陰に接近した理由も、察しがつく。にもかかわらず、なぜこうした重大事が忘れられたのかを考えてみたい。

 長州藩には、膨大な数の藩政文書が残されている。それらは明治以後、東京高輪に設けられた公爵毛利家編輯所で整理、研究が進められた。戦後は山口県文書館に、「毛利家文庫」として架蔵されている。中でも嘉永6年から明治4年(1871)までのさまざまな記録簿冊を解き、再編集した『部寄』四二七冊は重要な基本史料である。その中から特定の人物に関する史料を探すには、場合によっては「総めくり」と呼ばれる、頭から見てゆく作業が必要だ。

 ただし、重要な人物に限っては『部寄』はじめ諸記録などの中から関係するものを抜き書きし、別に簿冊を編んだケースもある。毛利家文庫の『高杉晋作履歴抜書』と題された220丁ほどの大冊も、そのひとつだ。筆跡や用紙から察するに、複数の編纂員が晋作に関する記録を見つけるたびに書き写し、持ち寄って製本したようである。お陰でジャングルのような史料群の中を彷徨うこと無く、晋作の生涯が辿れる。

 清水山東行庵の晋作墓所の傍らに建立された「高杉東行顕彰碑」の碑文も、16歳の江戸行きには触れていない。ちなみに同碑文は明治42年9月、伊藤博文の撰文と刻まれているが、実際は主に杉孫七郎による撰文である。その情報ソースは、編輯所の史料だったと考えるのが妥当だろう。

 晋作の本格的な評伝が世に出るのは意外に遅く、没後半世紀を経た大正時代に入ってからである。古典として読み継がれる村田峰次郎『高杉晋作』が大正3年2月、横山健堂『高杉晋作』が大正5年6月に出版された。村田は村田清風の孫、横山は横山幾太(松下村塾生)の息子である。ともに晋作の身内と言ってもいい山口県出身者で、公爵毛利家の史料を閲覧出来る立場にいた。だから村田・横山共に晋作伝を著すにあたり、公爵毛利家編輯所で基本的な史料を収集したはずである。事実、横山の著書の序言には編輯所への謝辞が入っている。

 その際、『部寄』などの総めくりを行わず、すでに纏められていた『高杉晋作履歴抜書』に頼ったのではないか。だとすれば、晋作の江戸行きが忘れられた原因は説明がつく。

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 実は『高杉晋作履歴抜書』は「吉田松陰伝抜粋、安政三年十月八日」から始まる。その次は「安政四年二月十四日」に出た藩校明倫館の「入舎生」を命じるとの沙汰で、以下ほぼ時系列で沙汰や記録が続く。つまり『高杉晋作履歴抜書』の編纂者は「安政四年二月十四日」以前の、江戸行きに関する嘉永六年や安政元年の沙汰を収録しなかったのである。それは単純ミスなのか、必要無しと判断したのかは不明だが、おそらく前者であろう。わざわざ、除く理由が思い当たらない。

 だから村田・横山の著作にも、16歳の江戸行きの史実が出て来ない。にもかかわらず、この2冊は晋作伝の両横綱のような存在になってしまう。さらなる原典を総めくりして、晋作に関する史料を拾う者はなかった。

 戦前、軍国主義の高まりを背景として次々と出版された晋作伝の大半は、両横綱の焼き直しが大半だ。戦後の出版でも、両横綱から強い影響を受けた晋作伝が少なくない。平成元年(1989)に生誕150年記念と銘打ち山口県立山口博物館で開催された企画展「高杉晋作と奇兵隊」も、江戸行きには触れない。同展図録に収められた年譜の嘉永元年・安政元年部分にも、江戸行きは記されていない。

 顕彰碑や数々の伝記、平成の展覧会にまで影響を及ぼしたとすれば、『高杉晋作履歴抜書』の罪はなかなか重いと言えよう。なお、履歴草稿は『高杉晋作史料』三(平成14年)、風呂使用許可の沙汰は『高杉晋作史料』一(同前)、江戸行きの沙汰は『久坂玄瑞史料』(平成30年)にそれぞれ収録しておいたので、興味があればご覧いただきたい。

        (『晋作ノート』51号、2021年1月)

春風文庫

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