木戸孝允の診察書

(1)

 上京中のある朝、店を開けたばかりの古書肆を覗いたら「木戸顧問容体」などと題された書類一括があった。虫食い箇所が結構多いが、明治十年(一八七七)五月二十六日、木戸孝允が京都で病没する直前の関係史料であることは分かったので、これは面白いと思いさっそく手に入れた。店主に尋ねたところ、出所は分からないが、先代が数十年前に仕入れ、永年在庫として眠っていたのを昨夜店頭に並べたばかりだという。

 持ち帰り整理すると、全部で十一紙ある。ただし一通が複数枚に分かれた電報もあるから、次の六点だ。

①最初に「丁丑三月五日朝到来より」とメモ書された、四紙から成る電報。本文以外は切り取られているので、発信人・受取人は不明。内容は「昨日午前六時より大進撃、双方激戦の後、官軍勝利、ついに田原山の上まで進み、死傷も少なし」(原文カタカナ)云々とあり、田原坂を政府軍が落とし、熊本城への道が開かれたという、西南戦争の戦況報告が主な内容である。

②明治十年五月五日午後七時、宮内少輔杉孫七郎が京都から東京の元老院議官宍戸たまき(王へんに幾)に発した「二百十四字」の電報で三紙から成る。

③明治十年五月九日、児玉宮内権大丞から宍戸あて書簡。

④明治十年五月十三日午後一時五分、杉が京都から東京の宍戸・児玉に発した「十六字」の電報。

⑤明治十年五月□□(虫食)(十五)日、伊藤博文が京都から東京の山尾庸三に発した電報の写し。「十五日午前木戸留守□(虫食)知」とある。

⑥明治十年五月二十一日午前十一時三十分、侍医伊東方成・池田謙斎・岩佐純連名による「木戸顧問容体」の診察書。

 内容から察すると、大方は京都から東京の元老院議官宍戸たまきのもとに寄せられた情報のようである。宍戸にとり木戸は同じ長州出身で、幕末から苦楽を共にした同志だった。全文はいずれ翻刻するとして、本稿ではひとまず私が興味をおぼえた②⑤⑥につき、簡単に見ておきたい。

(2)

 周知のとおり木戸は幕末、高杉晋作らとともに長州藩の尊攘・討幕運動を牽引し、明治政府の高官となって近代国家建設に尽くす。だが体調がすぐれず、明治九年三月には参議を免ぜられて内閣顧問となり、六月には奥羽巡幸に供奉し、八月に宮内省出仕となった。翌十年一月、西国巡幸に供奉し、京都に到着するや発病する。さらに九州で西南戦争が勃発し、心痛も重なった。四月下旬になると胸痛はひどくなり、死を意識するようになる。死んだら、久坂玄瑞らかつての同志が眠る東山霊山に埋葬して欲しいなどと言う。

 五月二日には太政大臣三條実美の命により、東京から参議兼工部卿の伊藤博文が木戸のもとに馳せ参じた。伊藤は長州出身の京都府知事槙村正直などとも話し合い、東京にいる木戸の妻松子(幾松)を呼び寄せようとする。これにつき木戸は「節角御懇切に松(松子)の事も仰せ下され候得共、遠からず帰京仕り候事に至り候かとも相考へ申し候間、往来騒動にも御座候間、先づ見合せ候様に御願ひ仕り候」(五月一日、山尾あて木戸書簡)などと遠慮していたが、そうも言っていられない症状になった。

 そこで宮内大輔杉孫七郎が、松子に早く京都に来て欲しいと、宍戸に依頼した電報が②である。「至急船便にて押して来るように、御取り計らい頼む」とするも、「ここ元より催促致したるわけにあいならざるように、ご注意ありたし」と気遣う(原本カタカナ)。

 松子は翌日の五月六日に東京を発ち、十日、京都に到着している。一説では人力車を乗り継いで来たというが、それでは松子の体力がもちそうにない。電報にある海路の方が妥当ではないか。『松菊木戸公伝・下』(昭和二年、以下『松菊』と略す)によると翌十一日、杉は木戸の近親者「嗣子正次郎・姪来原彦太郎・家従藤井弥十郎等」も京都に来るよう、宍戸らに頼んでいる。

 ただし、木戸が維新以来書き続けて来た日記の筆は五月六日をもって止まっているため、このあたりの心情を本人の言葉で知ることは出来ない。

(3)

 五月十五日、伊藤博文から東京の工部大輔山尾庸三に打った電報の写しが⑤である。

 木戸の容体は悪化するばかりなのでこの日、伊藤らは相談の上、ドイツ人医師シユルツにも診断させた。現在でいう、セカンドオピニオンであろう。結果は「容体は大概伊東その他、日本の医者の見込みと変わることなし」(原文カタカナ)で、「岩公(右大臣岩倉具視)え、この趣を通じ下さるべし」(同前)と依頼する。この経緯は『松菊』に述べられているが、それと符節する内容だ。

 山尾にとり、木戸は公私にわたり世話になった恩人だった。先年萩博物館で開催された企画展「日本工学の父山尾庸三」で展示された、木戸が病床から山尾に書き送った数通の手紙を見ても、その信頼関係が伝わる。二十日、木戸は山尾を東京より急ぎ呼び寄せ、「再び起ちがたきを言ひ、後事を嘱す」(『松菊』)ことになった。

(4)

 五月十九日、明治天皇は親しく病室の木戸を慰問し、勅語を与えた。恐懼して起座し、首を擡げる木戸を介助したのは杉だった。この日、木戸は杉に「早ク白雲ニ乗ジテ去ラントス」と告げる。杉は「哀憫悲痛に堪へずして暗涙に咽び、之を安慰して深憂するならしむ」だった(『松菊』)。

 長州出身の杉もまた、幕末から木戸と苦楽を共にして来た仲である。関西行幸に供奉し、奇しくも木戸の身近で世話をして、その症状を東京に知らせる役を担った。

 最後の⑥は宮内省罫紙一枚に天皇侍医の伊東方成・池田謙斎・岩佐純が連名で記述した診察書である。亡くなる五日前、五月二十一日午前十一時三十分の木戸の容体だが、これが最も重要な内容と思われるから、まず全文を掲げておく。

「木戸顧問容体

前症同様之衰弱悄々増進シ、大便一昼夜間六七回より十二回ニ至ル。多クハ膿血ヲ交ユ。時ニ下血アリ。夜中煩悶殊ニ甚シク、肝部ノ腫張ハ弥増大シ、全ク熱ナシト雖トモ百三十度ヲ越ユルニ至ル。是衰弱ニ因ルナラン、牛乳又ハ他ノ滋養ヲ食スルコト相応多シト雖ドモ、甚クハ操煩渇ノ力ニシテ真ノ食気アラサル可シ。依テ消化モ十分ナラス。右ニ付、昨今最モ衰弱甚シク、遂ニ危険ニ進ミ、不容易容体ニ付、何時急変アルモ斗リカタク候儀ト診察致候。

 十年五月廿一日午前十一時三十分

     伊東・池田・岩佐 」

 この頃のこととして『松菊』には「一眠毎に夢みて曰く、予某に遇へり、また某来りたりと、忽ち醒れば須臾(ルビ・しゅゆ)も国家将来の事を苦憂して止まず」とある。そして二十六日午前六時、四十五歳の生涯を閉じた。

 『日記』によると、本人はリューマチと思っていたようだ。しかし先述のドイツ人医師は胃癌と診た。これが根拠となり、現在胃癌説がほぼ定説になっている(松尾正人『木戸孝允』平成十九年)。木戸を敬慕した長州出身の軍人政治家三浦梧楼も、「(木戸から貰った四月二十四日付書簡の)其紙尾に胸痛にて難儀いたし居るとの事が附記してあるが、全く胃癌にて死去したのである」と回顧する(『観樹将軍回顧録』大正十四年)。私もかつて木戸の小伝を書いた際、胃癌であると信じて疑わなかった。だが、⑥は胃に触れておらず、門外漢ながら違和感を覚えた。

 そこで医師で『小説・木戸孝允』全二冊(平成三十年)の著者でもある中尾實信氏に⑥を見ていたいた。中尾氏は著作の中で木戸の症状を詳細に分析し、「おそらく消化器癌の症状と考えられ、二月には転移による胸痛に苦しめられ、気がついたときには末期の症状だった」「長期の下痢症状などから推察すれば、大腸癌の転移による末期症状とも考えられる」などと述べている。読売新聞西部本社文化部丸茂克浩氏を介してうかがった中尾氏の見解をもとに、私の文責でまとめると次のようになる。

 木戸は大腸癌の可能性が高い。『日記』明治九年九月二十六日の条には「腹瀉(ふくしゃ)未全治、已に四十日に至る」などとあり、少なくとも亡くなる半年余り前から下痢に悩まされていた。それが、肝臓に転移したと考えられる(胃にも転移した可能性は否定出来ないが)。⑥は肝臓の膨張が報告されているが、大腸癌は肝臓に転移し易い。胃と肝臓は近いので、レントゲンも無い時代、胃癌説が生じたのかもしれない。

 大腸癌の肝臓癌転移という合理的な説明は納得ゆくもので、感動すら覚えた。確かにドイツ人医師よりも、木戸を診て来た日本人医師の報告の方が、信憑性が高そうだ。

 大物政治家だから、診察の報告書は他にも作られただろう。それらが現存しているかは、現時点では私は分からない。近年は歴史上の人物の言動を病から検証する研究も盛んである(家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局』『老いと病でみる幕末維新』など)。さまざまな分野が成果を持ち寄り、新たな側面が照らし出されることを期待したい。

(『晋作ノート』50号、2020年9月)

【付記】『明治天皇紀・四』によると、池田は西南戦争の戦地より召還され、伊東・岩佐に合流して木戸を診た。つづいてシユルツも東京から召されて来た。シユルツの診断では「極めて難治の胃病なり、服薬は卻りて激動を来すの恐れあるにより、滋養物を取りて治すの外なしと」とある。危篤は二十五日に伝えられ、翌日午前六時三十分に薨去した。


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