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高杉晋作書簡

大田舎人あて 慶応元年(1865)2月17日

【解読文】

朶雲奉拝読被仰越候趣、委曲奉承知候、少々は遅刻に相成候様取計候得共、直□温泉場へ罷出候間、左様御承知可被有、其内宜敷御取計被下候様憑奉願候、一度□貴趣向今向候

二月十七日

尚々、何も拝眉之上、万縷可申上候、以上

(表書)

「大田舎人様 谷梅 内貴答」

【解説】

前年(元治元年)12月、藩政府打倒を掲げる高杉晋作率いる遊撃隊が下関新地で挙兵し、長州藩は内戦へと突入した。やがて奇兵隊をはじめとする諸隊も晋作に呼応。1月、大田・絵堂の戦いで晋作らが藩政府の鎮圧軍を撃退し、やがて長州藩は幕府に対する「武備恭順」路線で一本化されてゆく。

これは藩内戦が一段落した頃の晋作書簡である。内戦を起こした罪がまだ正式に消えていないので、変名「谷梅之助」を名乗っている。あて先の大田舎人は吉敷毛利家の重臣で報助の通称で知られ、維新後『毛利十一代史』を編纂し、大正9年86歳で没。吉敷毛利の家臣の中には、内戦の際、晋作らに応じる者が多かった。この書簡でも、晋作は大田に何かをしきりと依頼しているようである。吉敷は奇兵隊や諸隊が本拠とした山口に近く、晋作らとしても協力を取り付けておく必要があったことは間違いない。

維新後、関西を経て東京に移った大田だったが、明治34年11月6日、火災によって文書や史料の大半を失う。この晋作書簡は、その際、辛うじて焼け残った文書のひとつで、部分的に焼けた跡があり、痛々しい。

他にも春風文庫は、大田にあてられた坪井九右衛門・石川小五郎・毛利登人の書簡類を所蔵している。いずれも焼けた跡があり、火事場から救出された貴重な史料である。


宇都宮黙霖・吉田松陰往復書簡

安政3年(1856)8月18日

【解説】

安政3年8月、宇都宮黙霖(号・王民)は萩を訪れ吉田松陰に面会を申し込む。黙霖は現在の広島県呉市出身の勤王僧である。しかし松陰は、野山獄を出たものの幽囚中であったため会わず、書簡の往復により意見を交換した。この文通は、国体論や臣民道について激烈な論争を展開することとなる。黙霖の急進的な討幕論をぶつけられた松陰は、啓発され討幕へと転じる契機となってゆく。これは松陰を態度と意見を激しく非難した黙霖の書簡と、それに対する松陰書簡の冒頭部分を合装し一巻としたもの。川上喜蔵『宇都宮黙霖 吉田松陰 往復書翰』(昭和47年、錦 正社)には、この黙霖書簡につき次の解説がある。

「…黙霖の方は如何。『書至る。之を読むに他事を言う。唯、他事を挙げて来るは其の意窮する所あるか。抑(そもそも)も弁の明弁紊(みだ)るゝか』と、黙霖の感情は不満を通り越していらいらして来た。そしてついにそのあまり、松陰に対して悪罵を浴びせるに至った。

『昔者、王莽、漢の権を竊(ぬす)みたるに天下多く之を敬せり。独り梅福数輩のみは之を非(そし)りぬ。僕、今日の覇者を観る、猶王莽のごとし。足下之を仰ぐの人、何ぞ其の梅福の何物たるを知らんや。…石勒は今焉(そこ)に在り。仏澄は百千万億あり、焉を数ふべからず。』

天下の権を私心をもって竊んだ王莽、石勒のような伯者―(将軍)―は、今眼前に居るではないか。だのに個人の修養とか安心立命とかいって事を起さないのを平和の至極だと思っている仏澄のような学者連中は、昔からいくらでも居って数えることはできないほどである。事を起こさない教は幕府にとって好都合の有難いことではあっても、歴史的精神の顕現という点からは寸毫の益もなく、否、却って益々大道の存在を晦(くら)くし気付かしめないようにしているといって過言ではない。感悟論の正体とはそんなもんだ。

だからお前さんは、将軍を覚らせよう、感悟せしめようといっているが、その実内心は将軍をどこまでも擁護してゆこうというのがその本音だろう。どうだ白状せよ!―と黙霖はののしった。

もとより黙霖のはの痛罵は感情に走った脱線ではあるが、しかしその論旨は、この時期の松陰の時局に対処する時務策についての思想的態度への批判として、まんざら当ってないとはいえないのである。すなわち、黙霖の討幕論に対して松陰は公武合体論者であったからである」